2019年11月9日土曜日

【歴史本】「論語の新しい読み方」「弟子」

今回取り上げたいのは、中島敦の「弟子」と、宮崎市定の「論語の新しい読み方」です。

 中島敦は、私が一番好きな作家です。高校の教科書で「山月記」に出会ったことは、私がいま、中国語を使って貿易関係の実務をしていることと、やっぱり関係有るんだろうと思います。進路を選ぼうとしていた高校生の私にとって、それほど、中島敦の文体は「美しい」ものだったと思います。

 さて、今回は、その中島敦の中でも私が特に好きな「弟子」とを取り上げたいと思います。「弟子」は、淡々と孔子とその弟子、子路の交流を描いた作品ですが、どうしてもその最後の1ページで、何度読んでもどうしても涙が溢れ出てきます。「弟子」の特色として私は下記の点が挙げられるかとおもいます。それは、

ー「孔子を儒教の聖人としてではなく、生身の人間として捉える」ー

という点です。この点で中島敦の「弟子」と全く同じスタンスなのが、宮崎市定です。「論語の新しい読み方」は、一個人としての孔子といわば孔子学園とも言える学びの場にて行われる弟子の遣り取りを非常に身近なものとして切り取っていきます。その中で宮崎市定は、孔子がその生涯を振り返って述べた有名な一文について、新鮮な読みを提示します。

ー「七十にして、心の欲するところに従い、矩(のり)をこえず。」ー

(吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順。七十而従心所欲不踰矩)

普通この文は、孔子が段々と徳を積んで、70歳になり誰にも及ばない聖人の境地に立ったのだ、と解釈します。しかし、宮崎はこの一文を「孔子が自身の気力の衰えたことを嘆く言葉」として捉えます。私もここはやはり宮崎の読みの鋭さに大いに共感します。70歳を超えた孔子の身に振りかかったもの、それは決して幸福な出来事であったとはおもえないからです。

歴史上に実在した個人としての孔子は、74歳になくなりますが、その最晩年には、どうも言いようのない寂しさが付き纏っているように思います。BC481年、72歳の時、まず孔子が愛した弟子とも言うべき顔回が無くなります。孔子の悲しみは非常に大きく「天が私を滅ぼした!(天喪予!)」と嘆きます。更には、同年、魯国の西で狩りが行われ、麒麟が捕らえられたと聞き、平和な世に現れるはずの吉祥である麒麟の遺骸をみて、「我が道は行き詰まった!(吾道窮!)」と嘆き、それまで描いてきた「春秋」という歴史書を書くのを止めてしまいます。

そうして、その翌年、BC480年にまたもや、愛すべき弟子であった子路が就職先の衛国の動乱に巻き込まれて死んでしまい、先立たれたことを伝え聞くのです。中島敦は「弟子」の最後において、子路の死をこう簡潔に叙述します。

ー「『見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!』
全身を膾(なます)の如くに切り刻まれて、子路は死んだ。ー

その死の知らせを聴いた孔子は、潸然と涙を流します。 ここには「聖人」のものなどではなく、孔子、一個人の隠しようもない悲憤、やるかたなさ、剥き出しの感情があるように思います。

中島敦の「弟子」、宮崎市定の「論語の新しい読み方」。決して新しくはない本ですが、読まれていない方は、是非手にとってみてください。ちなみに私が毎回涙してしまう、子路の最後の言葉ですが、「史記・衛康叔世家」には、

◾︎「子路曰『君子死、冠不免』結纓而死」
岡上訳:子路は「君子は死しても冠は免ぜられず」といって、冠の紐を結んで死んだ

と有ります。自らの冠(職位)に殉じた子路の死を的確に表現した司馬遷は、流石に名文家です。


2019年11月2日土曜日

【その他】聖書と論理哲学論考

今回はFB側での投稿についてこちらにも記録のためアップしようと思います。
実は、fbにて古代史論考の紹介動画を作ったのですが、その際にちょっとした文をつくったその背景を書いておきたい思います。普通には動画を見ただけではよくわからないと思いますので。最近、聖書を手にするようになって、素晴らしい閃きがあったのでそれを紹介動画にもつかったということで、今回は、その閃きについての解説ということです。まず、動画で使った冒頭の紹介文を引用します。

---------------------------------------------------
継続としての日本古代史
Final Chapter - an end of  the Tractatus(*4)-

はじめに物語(*3)があった
In the beginning was the Word(*2), 

物語は神とともにあり
and the Word was with God, 

そして、物語こそが神であった
andthe Word was God.
---------------------------------------------------

まず"In the beginning was the word(*2)"から始まる英文ですが、これは、分かった方もおられるかと思いますが、新約聖書のヨハネの福音書の書き出しです。普通には「はじめに言葉があった」という日本語訳がついていますが、岡上私説の論考については、あくまで物語として歴史を読み解こうとしていきますので、敢えて「はじめに物語があった」と「物語(*3)」というキーワードに置き換えてみました。実際、ヨハネの福音書はイエスの数々の物語が書かれていますから、意訳としても全然アリなのではと思っています。

それから、私は自分の古代史考察をずっと「論考、論考」と言っていますが、これはどうして「考察」や「推論」と私が呼ばないかについてですが、実は「論考」といえは、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」という難解で有名な哲学書があり、それを意識して論考という単語を使ったからです。論理哲学論考の原題は、「Tractatus Logico-philosophicus」ですので、今回は、その「Tractatus(*4)」なる単語を使ってみました。今回のfb論考は、全体で四部64回構成ですが、もし、まだ次回があるなら今度は「探求」を使ってみたいですね!

で、なぜ古代史の論考の紹介動画で、「聖書」と「論理哲学論考」なんだ、という点については、それは「それの方がなんかカッコイイからです(笑)」というのが最大の理由ですが、実は「In the beginning was the word」から始まる一文が、まことに、まことに、「論理哲学論考」の精神を表す言葉なんではないかなと思うからですね。ウィトゲンシュタインの「論考」は、ものすごく妖しい魅力を放っている本ですが、その魅力の一つに、論理を語る本にあるにもかかわらず、極めて教条的な文言が淡々と書かれていて、論述が論理的ではなく、矛盾した性格がある点が挙げられるのではとおもいます。そして、その教条の第一条が「世界は成立していることがらの総体である。」であり、第二条が「成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。」という文言なんですよ。ヨハネの福音書の冒頭「はじめに言葉があった」という「言葉」は、ギリシャ語原文では「Λόγος = logos=ロゴス」ですので、即ちそれは「Logic(論理)」そのものと言えるかと思います。

論理哲学論考が超絶にエキセントリックで人を惹きつけて止まない点は、「思考の限界について語ろう」という極めて野心的なその企画にあるのですが、それは世界を「事実=言葉(成立した諸事態・命題)」として、強烈なまでに単純化して捉えてしまうところにこうした離れ業的な企画が成立する余地があるのだと思うのです。そして、「論理哲学論考」を難解ながらも取り敢えず読み進めて、完全に私が(そしておそらくは日本中のほぼ全ての読者が)置いていかれた点が、第六条から急に倫理や美についての言及が始まる事なんですね。私は 最近になって、この論理哲学論考の奥底には、どうも「In the beginning was the word」から始まる「世界の始まりを言葉としてと捉える」「言葉こそが神である」という聖書的な信仰心があったのではと思うようになったのです。ですので、「聖書」と「論理哲学論考」をセットにしたわけです。そうして考えてみることでこそ、論考の結論である「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。」という教条の意味がより深く体験できるのではないかと思います。







2019年8月15日木曜日

【歴史本】アマテラスの誕生・銅鐸への挑戦

「アマテラスの誕生」と「銅鐸への挑戦」(溝口睦子と原田大六)

さて、また書評のようなものを書きたいと思います。主題はズバリ、皇祖神「アマテラス」です。今何故、このテーマかといえば、実は恥ずかしながら最近になってやっと原田大六の「銅鐸への挑戦」を読了し、同じく何年か前に読んだ溝口睦子の「アマテラスの誕生」という本について、この両書が一つの「アマテラス」という日本古代史の根本問題に置いて全くの両極端をなしているなと感じたからです。

予め言っておきますと、私は原田大六の「銅鐸への挑戦(全5巻)」をアマゾンで一冊50円程度で5冊買いました。5冊とも第一刷です。非常に悲しい事では有りますが、誰にも省みられなくなって、捨て値で売られている本と言えるでしょう。一方のアマテラスの溝口睦子の「アマテラスの誕生」は、日本人の教養を高めるという崇高な目標を掲げる「岩波新書」に入っており、私の手元のものは数年前に新品で780円で買ったのですが、2009年発行、2014年で第六刷のものです。

原田大六については、私の論考に既にご紹介したとおり、平原王墓の発掘責任者である彼は、平原王墓に現れる文化こそ古墳時代の嚆矢であり、その被葬者こそアマテラスその人に間違いないと確信しました。そうした考古学的事実と日本神話の合致点を基点として、大いに日本神話を語った本、それが「銅鐸への挑戦」です。しかし、考古学的事実から日本神話を検証するというのは、どうもこの国の戦後の学問環境の中では、白眼視されざるを得なかったのでしょう。この本は世間からは完全に黙殺され、すでに忘れ去られたかのようです、そして、そんな事情をこの中古本の価格が如実に示しているように思われます。

対して、溝口睦子の「アマテラスの誕生」は、原田大六が健在なら、その大六節で大いに口撃されたであろう内容です。その論立てといえば、まず記紀は政治的な意図を持った創作物であるので、そこに歴史が反映されているとは考えず、一旦、白紙としてゼロベースにした上(むしろゼロベースどころか、もっと否定的に捉えているように感じますが)で、科学的に検証しようという目論見のようです。それによると、実はアマテラスが国家神とされたのは、そう古い時代ではなく、ヤマト王権では、高木神(タカミムスヒ)こそ、その最初的な国家神で、朝鮮半島の影響を受けて政治的に導入されたとします。その上で壬申の乱の後、天武天皇によってこれまた政治的な何らかの理由から、弥生以来の土着信仰である「オオヒルメ(溝口が意訳すると「日のおばさん」となる)」を皇祖神として人為的・政治的に設定したに過ぎない、とされてます。溝口によると、アマテラスなる語は七世紀末になって初めてつけられたものでしかないとのことです。ここに彼女の、強いては、現代日本のパブリックな学問の場に置いて、記紀を単なる政治的創作物と見做すスタンスが如実に表れています。

「銅鐸への挑戦」が発行された1980年の時点で、原田大六は、その全身全霊を持って、それこそ激烈な文面で「記紀を白紙化する」ような(唯物論的な)歴史観を排撃し、平原王墓の被葬者こそがアマテラスの原型に他ならないと立論しました。それに対して、この国の「科学的歴史」観なるものは、それ以来30年も全く微動だにせず、2009年に溝口睦子の「アマテラスの誕生」が出版されているということです。同書では、アマテラス(オオヒルメ)について語るにも関わらず、その御神体が大きな銅鏡であることにすら触れられていません。天孫降臨において「鏡を見ること我をみるように奉斎せよ」とのアマテラス言い残したことなど、検討するほどの価値もない世迷言に過ぎないと考えているのでしょうか?

それにしても、アマテラスを土着の「日のおばさん」として特段の論拠もなく解釈することに満足して、アマテラスを語るのにその正体とも言える大型銅鏡には全く言及もなく、当然、平原遺跡も、内行花文八葉鏡も、原田大六の著作も全て無かったことにになっている点には、少々呆れてしまいます。善意に解釈して、彼女のスタンスが純然たる文献史学からの検討だと解釈するにも、この岩波新書の高々200ページの本には、考古学的な存在である稲荷山の鉄剣については、触れられてもいるのです。溝口氏が本書を書いた時には平原王墓については再調査も行われ、報告書も出ていたはずですから、知らなかったすれば、不勉強、知っていて取り上げなかったすれば不誠実の謗りは免れ得ないのではないでしょうか。

と、書いているうちに、「アマテラスの誕生」の批判の方に極端に偏ってしまいました。本当は、もう少し冷静に両者を比較して、その解釈や学問的なスタンスの振り幅について感じてもらい、機会があれば両者を比べ読みして頂けるような文章を書きたかったのですが、まぁ現在の心境では、書き直しする程の必要性は感じませんし、原田大六先生に肩入れしてしまうのは仕方ないのかも知れません。実直に言って「銅鐸への挑戦」も余りに独善的・断定的に書かれている点やざっくばらんに過ぎるところはあり、私の考えるところでは全く受け付け不可能な点も多々あるのですが、古代史に向き合うスタンスとしては、私が断然「大六派」なことは言うまでもない訳です。

最後にこの2冊の本の立ち位置を比較しておきますと、記紀を「分からないもの」としてゼロベースで取り組み(その上で後世の創作を念頭に)、その上で読み解いた「アマテラス」と、平原王墓という弥生終末期の墳墓の被葬者こそ、アマテラスに他ならないという定点を発見し、その上で読み解く「記紀」ということになります。


兎も角、少々のお金とお時間のある方は、是非読み比べに挑戦して頂けたらと思います。どちらに同情的に感じながらに読むにせよ、古代史の視野が広がることは間違いないかと思います!

2019年7月31日水曜日

【歴史本】漢帝国 ー400年の興亡

漢帝国

  渡邉義浩氏の著作を読んでみたところ、やっぱり違和感があったので、まとめてます。尚、かなりの批判になりそうのなので、また岡上が勝手なことを言っていると笑って読める方のみ読み進めてくださればと思います。

  ここで異議申し立てしたいのは、本書の中心テーマである「儒教の国教化」についてです。本書では、「『儒教の国教化』が分析概念である以上、自分なりの指標を仮説として掲げ、それを実証していく以外ない」として、通説の武帝期ではなく、後漢の白虎観会議こそが「儒教の国教化」の一つの画期であるとしています。が、これはどうなんでしょう? ここで二点の大きな見逃しがあるように思います。

  まず第一点は、本人も書かれている通り、儒教の国教化には、時間的な浸潤の過程があるということです。そした中で、渡辺氏はその完成の時点である「白虎観会議」が大きな画期であるというのですが、それはどうなんでしょう? こうした場合、変化の起点となる時点のほうが画期としてはより適切におもいます。具体的には漢初の黄老思想を経て、法家的志向を老荘思想でなく、儒学で飾るようになった武帝期がその変化の画期として相応しいのではないかと思います。一般に「**の**化」といった場合には、法的に時点が定まるような事象(例えば「高校教育の無償化」など)は別にして、それが一定の時間幅を持つ世界史的な事象(例えば「産業の近代化」など)の場合は、はやりその頂点ではなく起点にその画期を求めるべきだと思います。渡辺氏が重視する「今文」と「古文」の間の儒学の解釈の調整をおこなった白虎観会議にしても、皇帝が儒学に肩入れして、その解釈を公的に決定する事態になっているということ自体、すでに儒学が漢朝にとって最大限重視するべき対象であったことを物語っています。つまり、白虎観会議を経て儒学が官学になったのではなく、白虎観会議が必要なほど、その当時はすでに儒学が漢にとって重要な位置を占めていたということです。

  そして大きな見逃しの第二点は、氏は平気で「儒教の国教化」と言っていますが、それは「イスラム教の国教化」や「キリスト教の国教化」と同じような意味では決してないということです。つまり、儒教は、中国流の人生哲学、もっと卑近に言えば処世術と言うべきのもので、宗教が宗教たる所以、形而上の存在、つまり神については極めて冷淡で、「怪力乱神を語らず」という有名なフレーズが象徴するように、そもそも儒学は宗教ではないと言うことです。つまり儒教というものの性質を鑑みた場合、具体的には「儒学の官学化」について考えるほうがよりふさわしいと言うことです。そしてこの「儒学の官学化」を考える場合、氏が分析するように「五経博士」揃ってのの設置が、たとえ武帝期になかったとしても、その時には、五経のうち「詩・書・春秋」の三経にはそれぞれ博士が置かれ、その後の儒学一強の潮流が決定したのですから、やはり、武帝期のその時点こそ「儒学の官学化」という画期があったと考えることが、最も相応しいと思います。

  さて、こうしてみると、氏が主張する、班固が書くところの「五経博士」の設置は信用ならないとした上で「武帝期は儒教の国教化の画期ではなかった」とする科学的な分析による主張というのが、どうもおかしな偏向があるように感じて已みませせん。ここには、班固の後漢書に、武帝時代についての後世からの投影・理想化があり、それは「儒教物語」に過ぎないとして、科学的な歴史の範疇から排除しようという目論見がここにはあるのではないでしょうか?別コラムからの繰り返しにはなりますが、私にとっては歴史の中にある「物語性」とは、そもそも歴史自体とそもそも分離不可能なもので、どうもこういう無機質な感じもある「科学的な歴史」というのは、逆に胡散臭いものを感じます。

  では、私なりに新たな「儒教物語」を考えてみた場合、渡辺氏がその完成を見る「白虎観会議」はいかなる意味をもつのでしょうか?私はここに歴史的な儒教の隆盛の頂点、秦漢帝国の古代史的発展の頂点を見たいと思います。そしてそれが頂点であるということにおいては、その裏の意味として、その地点よりの発展がなかったということでもあり、「白虎観会議」とは、儒教的な古代史的発展が挫折した地点でもあったと見るということです。実際、本書で指摘されるように、「白虎観会議」では、王権に服属しなくとも良い「不臣」なるものの一つに皇后の両親、つまり外戚を挙げてしまっています。そうしてこれ以降、後漢では、朝廷に巣食う外戚の跋扈を排除するべき大義を失うこととなり、「不臣」であることが許される外戚と皇帝権力の延長としての宦官が交互に覇権を握る泥沼の争いに落ち込み、遂には中世的な暗黒の分裂時代に突入していくことになるのです。


そうした意味では、西洋における暗黒の中世への転落の起点であるローマ帝国による「キリスト教の国教化」と比肩するべき事態として、後漢の「白虎観会議」を対置してみるのも面白いのではと思います。本書では語られなかった西洋史との比較というこの地平においてこそ、「白虎観会議」に「儒教の国教化」という画期を見る世界史的意義が立ち現れてくるのではないでしょうか。それは、後世の漢民族からみた儒教的発展の頂点であるが故に、儒教的なノスタルジーの対象であり、かつ、儒教の古代史的発展の頂点であるが故に、それ蹉跌した地点でもあるのだと思います。


2019年6月29日土曜日

【歴史本】平将門と天慶の乱

東京出張の帰りに手にした本書。なかなかにスリリングでしたのでご報告です。
なにぶん、私自身、馴染みのある年代でもないので論証を追うのに少々疲れるのは、一身上の都合ということで置いておくとして、本書が何より良いと感じる岡上好みの点は、平将門の年齢を若く見積もっている点です。

普通、将門は年齢が不詳とされています。しかし、著者は、将門の生涯を論述していくにあたって、蔭位受ける資格のある蔭子で有るはずの将門が、無位無官で終わったことを理由に、成人する前に都を去ったのではないかと「推定」して、その後の論をドンドン進めていきます。

本書には、随所にこの手の推定があり、その合理的推定に基づき、将門の人生が復元されていきます。その死に当たっての「順風」と「逆風」についても、資料の裏をついていて、非常に私好みの論考がなされていると思います。読み進めるに当たって、あっと裏をかかれるというか、退屈な通説には依拠しない、良い意味の裏切りが用意されてるのが非常に好感が持てます。少なくとも、本書を読めば、臆病でもありながらも、ギラつたところもある人間味のある新鮮で若々しい平将門像が眼前に広がることは間違いないと思います。そのまま大河ドラマにでもしたら「映える」こと間違いなしでしょう。

ただ、こうして立ち上がった新鮮な将門の人物像が、そのままには真実の将門像であるとは、本書だけでは言い切れないでしょう。もうちょっと別の本も読んでみる必要はあると思いますが、平将門という唯一無二の「反逆者」についての興味をこれだけ強く引き立てることが出来た時点で、「歴史家」の著者・乃至政彦の力量の勝利ではないかとおもいます。


2019年3月21日木曜日

【その他の本】日本人の起源

今回は、fbの方で紹介頂いた本、日本人の起源について書いてみます。

この方面の知識皆無でしたが、ゆっくり読み進めると、後半になるに従って、ちょっとワクワク感が増してきました。本書のクライマックスはやはり、縄文人から弥生人への転換をデータに基づきながら、時間的、空間的にも動的に示したことでしょうか。

 とんでもなくザックリ書いてしまうと、現在の中国江蘇省の人々とよく似た形質的特徴と、文化(抜歯について文化)をもつ人々が、九州北部に現れ、それが弥生中期から畿内方面へと展開していく、ということです。p213にあった血液タンパク質の遺伝データの近似性の距離を表した図が、象徴的で、弥生的遺伝形質をもつ人々がその中央、九州から畿内にあり、それを外側に囲むように東北と関西地方があり、さらにその外側に最北と最南端であるアイヌと沖縄があるようです。柳田國男の文化州圏論と相似していることがすぐピンとくると思います。 文化の州圏的な分布では、畿内が中央でしたが、遺伝情報では、震源地は九州北部ということになる点が異なっていますが、本質的には同じような事態が示されているように思います。

  せっかくですので、岡上私説と照らし合わせてみるならば、九州北部の弥生人にとって、   初めはその周囲は全て縄文文化を色濃くもつ狗奴国だったのでしょう。そして稲作文化を持つが故に人口の増大した九州北部の弥生人が進出を目指した方向は、南の九州南部では   なく、日本海ルート経由の畿内だった、ということだと思います。まずもって、私説と非常に適合的な内容で、内心ちょっと安心しました。

  結局、九州の方面から進出したという記紀の内容も踏まえると、高天原が宮崎でなく九州北部であったという解釈において、記紀の記載とこうした人類学的な事実が、ほぼ合致的であるという点をあとは世間様がどう評価していくのかということでしょう。記紀の資料的価値というものは、なかなか素直に認められることもないかと思いますが、どこかのタイミングで転換点を迎える日が来るのでしょう。

2019年2月4日月曜日

林檎社製品の中毒性に就て

前回、延口グループ(仮称)の温泉事業による顧客囲い込みの手法を暴いたが、よくよく考えると、より露骨とも言える囲い込みを実行している会社があることに思い至った。それはずばり世界的な電脳会社である林檎社(仮称)のことである。

そもそも私は、同社製品は敬遠し続けており、携帯電話やノートパソコンは、どちらかと言えば、ソニー製品でまとめるような傾向があった。それは仕事柄、同社製品を扱う厳しさを仄聞することもあり、あまり共感を持っていなかったことに加え、一方で「スタバ」なる美利堅発祥の珈琲館などでこれ見よがしに林檎社製品で仕事をしている風のサラリーマン風(だいたいピチピチの細身スーツと尖った革靴を着けている)の人が使っている様を半ば嫉妬心も抱きつつも、その押し付けがましいまでのスマート感に理由なき反抗を感じる側の人間であったからである。それが、ひょんなことからiPad Pro 12.9 Icnhを入手することになったことで、徐々に林檎社製品の中毒性のワナにはまっていく次第となったのである。

まず持って同社の狡猾なことは、iPad Proの最大の売りである「手書き」機能はiPad Pro本体を購入するだけでは、全く体験できないことにある。まずは大きな画面でネットやユーチューブなどを見れたら良いと思っているだけであったが、10万円程度する本体を手にして使い出してみると、そのシンプルなデザインの本体には、実は秘めたる性能が備わっていることにより、活用しないと勿体ないという気分にさせられてしまう。ペンシル自体も一万円を超える出費であり、文房具としての常識的にはあり得ない価格設定ながら、手書きで様々な草稿を書き、会社で打ち合わせに出てみたいという、好奇心に抵抗することはなかなかに難しい。こうした二律背反を乗り切って大枚を叩いて入手したiPad Proとペンシルを使ってみると、とくに「Good Notes」なる難しい英文の名称の課金アプリと併用することで、それが、手書きとほぼ同等の書き味を持ちつつ、拡大、縮小、切り取り、色変更などを素早く行うという手書き以上の便利さをもつ、究極に脳内の思考とシームレスなツールであることに気がついてしまうのである。すでに常識的なコスパ意識を乗り越えて入手した禁断の果実の味は、甘美という意外なかったのであった。


こうして禁断の園へと第一歩を踏み出した私が、次に目論んだのが、ノートパソコンからの完全なるiPadへの移行であった。無料のファイル管理アプリの「Documents」の使い心地がほぼノートパソコンに準じた出来になっているため、これは行けそうだと踏んだからであった。実際にやってみると、これは、予想通りというかそれ以上に存外に簡単で、ワイヤレスのキーボードを購入して、オフィスの課金版を導入するだけであった。ワイヤレスキーボードは、ロジクール社のものが、テンキー付きでiPad本体を立てけることもできるので便利である。これは実際は仕事は職業柄、自宅にて行う作業と言えばそもそも社内LAN環境がないためにWord,Excel、それにメールさえ使えればそれで事足りるということであったかもしれない。とにかく、マウスがない点がいかにも不便であるかと懸念されたが、それは長めの専用ペンシルがポインティングデバイスがわりも果たすことによって、不毛なる懸念に終わった。逆にマウスとキーボードの体制のパソコン入力より、ペンシルとキーボードの入力の方が、ペンを保持しつつも、テンキー程度は叩けるので、手を離す回数が減り、便利なぐらいである。ノートパソコンでテンキー付きとなると、クソ重く、起動も遅いので、いかにも仕事という気持ちを作らないと取りかかれないが、iPad環境にしてからというもの、その起動の速さから、特段のストレスを感じることなく仕事に取り掛かれるようになった。持ちろん、ワードエクセルもあるからには、通常の論文執筆などについても全く問題なく移行できたことは、いうまでもない。

こうして、ほぼノートとパソコンがiPad体制に一元化された私だが、次に目論む羽目になったのが、iPhoneとの連携である。これは、iPadのカメラは有能なものの、さすがに取り回しには、とくに外出時はあまりに大げさになってしまうので、iPhoneにその役目を担わせようということと、iPhoneからのテザリング機能で、外出先でもサッとワードエクセルを使ってメール確認がしたいということからであった。これについても、一番小さいiPhoneであるSEを購入することで、あっけなく実現した。一番大きな画面のiPadと小さな画面のSEは相性抜群で、今ではスタバならずとも、電波さえ届くところであれば、いとも簡単に快適な電脳環境が実現するようになった。とくにiPadからSEのテザリングを起動できる機能や、メモ・カレンダーの共有は、導入というほどもなく、もとから付いている機能といっていいほどで、無意識のうちに実現してしまっている自然さである。

こうして、気がつけば完全に林檎社の製品なしには、論考も仕事も進まないほどの中毒症状が進行することになってしまっていた。ふと我に帰れば、林檎社の新型iPadのレビューhpを開いているほどだ。おそらくこれまでの成功体験に味をしめ、無意識的にこの電脳環境をより快適にするべく情報収集しているのだろう。

以上、世界最強の囲い込みに成功しているであろう、林檎社による中毒症状についての一例を報告する。 写真は、患者の現在の病状を端的に示している。



2019年1月30日水曜日

延羽の湯の悪魔性に就て

  今日は、羽曳野市にある延羽の湯本店が如何にして小市民の満足感を充足させつつ、消費を促進し、或いは浪費を誘っているかの実態を紹介し、経営主体であるの延口グループ(仮称)のやり口を白日の下に明らかにしたいと思います。

  まず、第一に指摘しないといけない点は、それが天然温泉であるとこと謳っている点だ。もちろん、天然温泉であることは、大いに魅力ではあるが、それを殊更に宣伝されてしまっては、これでは、アクセスもそう悪くはないことだし、温泉好きは一度は行かざるを得ない。その次に注意するべきは、入館時には岩盤風呂(薬石サウナ)を一緒に入るかどうか、決めなければならず、金額も千五百円程度なので、取り敢えず岩盤風呂も一緒に払っrておくか、と思わせる点だ。狡猾なのは、現金の支払いはあくまで一番最後で、入館時には、バーコード付きのパスのようなものがついたバンドを貰うだけという点だ。館内の消費はこれ以後、このバーコードを読ますだけでOKということだ。これでは、購入時の負担感がなく、気持ちよくいろいろ使わざるを得ない。

 さらに狡猾なのが、岩盤風呂を申し込むと館内の着替え(浴衣)が一回は無償で取り返ててもらえること。これによって、「入浴ー着替えー岩盤浴ー着替えー食事」 という一連のコンボが気持ちよく行えてしまう。また、館内には、岩盤浴上がりには、冷えたトマトやキュウリなど、健康に気を使いつつ美味しく水分を摂る方法が用意されている。これも汗をひとしきり流して、喉が渇いている状態にある以上、目に入ったら頼まざるを得ない。極めて狡猾だ。

  また、入浴や岩盤浴が終われば、無料で漫画喫茶のようにかなりの種類の漫画が読み放題だ。こうなると、上述の「入浴ー着替えー岩盤浴ー着替えー食事」のコンボの合間に漫画を読んだりすることで、滞在時間はどうしても長くなり、その分各種消費も増えざるを得ない。特に、風呂上がり、サウナ上がりのお食事どころのビールセットの破壊力は強烈で、千円程度で生ビール、枝豆、唐揚げの3品が頼めてしまう。これでは、風呂上がり、サウナ上がりにこれを頼むなというのは、あまりに酷である。他にも普通に定食も千円程度で十分ボリュームもあり、味の方も「かごの屋」と同程度という感触というのは、殆ど反則ギリギリではないだろうか。

  また何を思ったか、散髪屋まで館内にあり、千円程度でカットできてしまう。当然、温泉で散髪しようなどという物好きは少ないので、割合に空いており、待ち時間もほとんどなく、散髪までできてしまう。これでは、一、二ヶ月に一回は来ることが決まったようのなものではないか。

  そして、もっとも狡猾極まりない点は、以上ような時間消費型サービスで、行けば半日は潰れるの割に、お風呂も入って、汗をかいて、散髪をして、ビールを飲んで、定食を食って、だいたい五千円程度で収まってしまうということだ。これでは、満足して家路につかざるを得ない。しかも、お風呂も食事も終わっているので、家に帰ると完全に寝るだけですむラクさ加減だ。

  以上、延口グループ(仮称)が如何に消費者を満足させて、リピーターを囲い込んでいるかを暴露した。皆さんの参考になれば幸いだ。

【歴史本】史記列伝抄

前回、「中国古代史の最前線」にて、長文をグダグダと書き殴りましたが、今回は、私好みの文献史学とはどんなものかということを体現するような一冊をご紹介しします。やっぱりそれは、宮崎市定なんですけど。

新書でもなくハードカバーで三千六百円もしますが、全集にも入っていないので、手元に置いておく価値は十分あるかと思います。宮崎市定の文章はリズムカルに読めますので、何処と言わず全ておすすめなのですが、前回の歴史観に関連する文章を念頭に特に「史記李斯列伝を読む」に目を通して見ると面白いと思います。氏のやり口というのは、司馬遷の手の内のカードを裏読みしつつ、そこから史料的事実を大胆に引き出してくる方法が、かなりの岡上好みの歴史の読み方なのです。これは、史料に対して、冷めた目を持ちつつも愛着を持って読み進めなければ出来ない芸当だと思うのです。

読み物として、普通に面白いのですが、大げさにいうなら、単なる典型的な悪役、完全なる悪を担わされた「趙高」という史的存在へのレクイエムにもなっているのではと思う次第です。


2019年1月3日木曜日

【歴史本】中国古代史研究の最前線

  今回の読書案内の更新は、佐藤信弥の「中国古代史の最前線」にします。

  本書は、その名のとおり、考古学的なもの出土文献・資料から、極めて具体的に中国古代史の復元を試みています。 そこから導き個々の事実は非常に興味深く、食い入るように読ませて頂きました、が。。。 実は、個人的な読書体験としては、ある種の違和感を感じざるを得ませんでした。

  その点とは、本書の折々に触れられており、その「伏流」をなす、歴史に対する態度、哲学についての言及についてです。少し長くなりますが、今回はその違和感の内容を少し詳しく説明することにします。以下、論文調でいきます。

  極めて大雑把に言って、学術的な考古学的な発掘がなかった時代、基本的には、前の時代から伝わった文献が、中国の歴史のほとんどであったと言って良いだろう。そしてその文献同士には相矛盾する点があり、それを比較し、検討し、より事実に近づこうとする学問的立場が、清朝から始まった「考証学」と呼ばれる立場である。「疑古派」と呼ばれるように彼らの学問的な立場は、文献に対して少し冷めた距離感を持っている。具体的に言えば、周代以前の歴史については、あまりに古く伝世された資料も少ないので、比較検討の余地がなく、信じるに足らない、という立場である。彼からすれば、書いてあるのものをそのまま歴史的な事実と認めることは、極めて不用意な態度であるといえる。そのような歴史に対する態度を「信古派」と呼ぶ。

  疑古派と信古派の違いを象徴的に表すのには、史記における始皇帝崩御に関わる宰相・李斯と宦官・趙高の密談が良いと私は考える。史記・李斯列伝では、宦官・趙高が、煮え切らない態度をとる宰相・李斯を説得し、始皇帝の偽勅を捏造し、胡亥を後継とするストーリーが、臨場感を持って描かれてる。偽勅にて、始皇帝の長子扶蘇を廃して、胡亥を皇帝に立てた李斯と趙高は、最期的には破滅を迎えている。ただ、よくよく考えてみると、こうした密談の内容はその性質として、それが秘密であるからして、史記のような歴史書にこうも如実に第三者にわかるはずがない。こうして、直ぐには文献を信じないのが「疑古派」の立場であり、それに対し、伝世文献に書いてあることを、兎に角は一旦そのまま信用するのが「信古派」の立場である。

 それらの伝統的な歴史的な立場に対して、近代になって次々と発掘・発見された考古学的な発掘物や出土文献を以って、伝世文献を裏付けしていこうという立場が、「釈古派」と呼ばれる。本書では、基本的には伝世文献と出土文献を突合し、歴史的な事実を復元してしていこうという立場である二重証拠法による「釈古派」こそが「科学的な思考」に近いとし、さらには、秦の始皇帝陵の兵馬俑や殷墟さらには夏王朝の王都と、疑古派がその存在を疑ったものが、近代において次々と発掘されるに及んで、最終手には「釈古派」が勝利したとする。

  しかし、中国の古代史に関して言えば、基本的には発掘された遺物が次々と文献的な事実を証明していく結果となっている現状は、立場を変えてみれば、それは「疑古派」に対する「信古派」の勝利とも言えなくもない。そこで、本書の作者は、その「釈古派」の立場の中にすら、古い「信古派」の文献史学の残骸を見、より純粋に考古学的な立場からの歴史の復元をするより先鋭的な学問的な立ち位置にこそ、より共感的であるようであり、「釈古派」のその勝利の奢りの隙間に、「信古派」復活のような時代錯誤が紛れてこないかという警鐘を鳴らしている。そして、その戒めとして、本書の最後には、中国古代思想史の研究者、西山尚志の意見を引用することで締めくくられている。私もある意味でそれが非常に重要であると考えるので、少し長いが、その全文を引用しよう。

****引用*****
  関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならないということで、西山はこうした態度を反証可能性を拒否・放棄し、反証によって真理に近付いていこうとするアプローチを閉ざすものであると批判する。そして近代において二重証拠法は、多くの研究者がさほど重視していなかった出土文献の史料としての有用性を喧伝するという効果はあったが、一方で「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」「疑いすぎてはいけない」と、伝世文献に対する文献批判、史料批判を封じる役割を担ったとし、反証不可能な命題をもって、反証を封じることがどのような結果をもたらしたかと、戦前の日本の歴史学の状況を想起させつつ問い掛ける。

  実は、私が感じた違和感とは、まさにこの本書の結論というべき部分に代表されている。つまり、本書の作者にとって、「歴史」というのは、科学的な手法に則って証明された事実の集合体に過ぎないのでは、ということだ。私に言わせてもらえば、考古学的な遺物が示す考古学的な事実にせよ、複数文献間で証明された文献学的な事実にせよ、それを寄せ集めただけでは、まったくもって「歴史」と称するには、不足しているのである。それは恰も、いくら細胞の機能について分析し、事実を収集してもその集合である「人間」の全てが分かるようにならないのとまったく同じであり、私にとって個々の事実の寄せ集めには基本的にさほど大きな興味はないのである。

  過去存在について、確実に分かったものだけを事実と認め、その集積にしか歴史を認めない、というのは一見非常に慎重な態度であるのだが、逆から言えば、それはとるに足らないような退屈な事実、忘却の彼方に押しやられた事実までをも背景に持つ「歴史」という豊かすぎる内実を持つものを対象にするには、あまりに偏狭で、不自由な態度なのである。実際、我々の平々凡々で、何の記録にも残らないような日常が集積したものが歴史である。例えば、2年前の2016年四月某日の私、岡上佑の食べた朝食の内容、4年前の通勤において私が目にした雑誌の表題とそれが私のその年の投票行動に与えた影響、さらには、私が通った幼稚園の先生の口元にホクロがあったかどうか、こうしたものは歴史的事実いうにはあまりに些細で平凡すぎる内容であり、それ故に記録には残りにくいので、それを証明することは困難だろう。しかし、それらが現実問題として証明されないからといって、それらを「歴史」から排除してしまうべきではないのである。

 少し哲学的な言い方をすれば、基本的に我々が背負う過去とは、その証明可能性とは、無関係には存在しているのである。それが証明できないのは、ひとえに我々人間の無力さ、無能さの所以であって、我々の認識能力の低さから、ある歴史的な事象を証明できないからとって、それを存在しないものとして、学問の場から排除してしまうことは、大きな間違いなのである。卑近な例えをすると、犯人の似顔絵を想像するのが良いだろう。確かに事実として確実に分かったものだけを書こうとするのは、非常に堅実な方法だと言えるが、人の記憶など、そもそも曖昧なところがあり、不可避的にその本質としてそれが存在しているである。わからないから書かない、書けないという態度で「のっぺらぼう」のまま放置するなど、そもそもが「(不完全な認識しか持たない)人間が似顔絵を書く」という行為そのものと矛盾している。少なくともそんなものは、犯人探しには、まったく役にたたない。我々が知りたいは、犯人の表情であったり、印象であったりで、そんな不確実な情報、知識でも、それが存外、犯人特定の役には立ったりするのである。勿論、誤認逮捕は避けないといけないが、ここで言いたいいのは、いかに確実といっても、白紙の似顔絵ほど、ナンセンスなものはないのである。

 少し話が過ぎたが、例の引用文に戻るならこうである。ここでは、「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という比較的穏当な命題について、「文献批判、史料批判を封じる役割を担い、戦前の歴史学を想起される」と問題提起されている。これは、率直に言って、全くもってとんでもない論理である。「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という命題が偽であるという主張は、「伝世文献の内容は必ず偽である(または真である)」ということと等価である。伝世文献を慎重に取り扱うべき、という主旨は100%同意であるが、間違った推論に基づいた考古資料のみが歴史であるというような態度からくる、干からびてパサパサの歴史など、まったくの願い下げである。先に挙げた「李斯と趙高の密談」を挙げるなら、事実の集合体としての歴史にはこうした物語じみたエピソードは残らないであろう。しかし、我々が手にしてきた「歴史」には、たしかにこのエピソードは存在するし、可能性としての内包の一つとして、このエピソードを歴史の内に留める勇気が必要なのではないか。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史などを例に出すまでもなく、歴史は物語性は切っても切り離せないものとして、古来から存在してきた。History のスペルの中には、Storyが隠れている。歴史から物語性を排除するなど、香ばしいカフェラテから、コーヒー成分を抜くような愚行であって、それでは残るのは水で薄めた牛乳が関の山なのである。私はこう言いたい。歴史にとって物語性とは、カフェラテのなかのコーヒー成分であって、その点こそ、大人の嗜好に相応わしい点なのである。

  先に挙げた引用文には、「関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならない」とあり、その後の文でこの考え方に批判を加えているが、この命題を批判したいなら非常に簡単であり、これはこの命題の根底にある「文献的事実は『真』か『偽』が何れかである」という態度がおかしいのであって、先に挙げた通り、証拠によって証明されていない事実とは、単に現時点の人間の有限の認識能力では、単なる真偽不明の命題というだけであり、決して否定的な証拠が出ていないからといって排中律を持って自動的にそれが『真』であるとは論理的には言えないのである。

ーーーーーーー

以上、ちょっと硬くなりすぎましたし、こうした批判はちょっと本書に対しては的外れとも思えますが、実はこれ、たぶんお気づきと思いますが、私の日本古代史に関する考えをこの場を借りて表明させて頂いたということです。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史に見る歴史を日本の記紀にも堂々と見ていいという私の主張でした。

という訳で誰も見てないブログですが、長文失礼しました



2019年1月2日水曜日

奈良県近辺の温泉 Best3

 新年明けましておめでとう御座います。

 少々唐突ですが、奈良県近辺の温泉ベスト3を選定しました。じつは年末になかなか良い温泉に入ったので、ちょっと記録に残しておこうかな、と思ったのです。

 選定基準は「贅沢な気分になれるかどうか」でしょうか。私は恥ずかしながらかなりの貧乏性ですので、単に豪華というわけでなく、「この金額でこんないい温泉入れちゃって、なんて贅沢なんだ」という気分にさせてくれることが最重要項目です。有り体に言えばコスパ重視と言ってしまっても良いでしょうか。ベスト3といっても、それぞれ長短ありますので、3つの中で明確な順位があるわけではありませんが、ま、それでもお気に入りという意味で、敢えてつけておきましょう。


<3位> 曽爾高原 お亀の湯
 3位はかなり有名かもしれませんが、曽爾高原、お亀の湯です。ナトリウムー炭酸水素塩温泉で、ヌルヌル感は驚愕です。特別な温泉にまで来たんだと言うことを正しく肌感覚で、実感することができます。もともと曽爾高原自身、ススキで非常に有名ですし、露天風呂から見える兜岳も解放感あっていいです。打たせ湯やサウナがあるのも温泉をイロイロと満喫するという意味ではポイント高いです。

 真冬に行くと雪も積もるので特別感がさらに増しますが、結構山側に登るので、スタッドレスを履いてくる必要がありそうです。ただ一点、源泉風呂も一部ありますが、他は加温と循環はしていますので、その点だけほんのちょっと残念です。すぐ側のレストランは、単価がソコソコな割にいつも混雑もしていますので敬遠してますが、かなり雰囲気は良さそうです。

 また湯上りの肌のスベスベ感も特筆すべきところ。この温泉の隠れた楽しみは、帰りの西名阪をドライブしている時にもあります。浴後のツルツル感を無料の二車線道路で実感する愉悦。一粒で二度美味しい感じがします。

評価☆
アクセス:☆☆☆
施設        :☆☆☆☆
泉質        :☆☆☆☆☆
雰囲気    :☆☆☆☆
総合評価:☆☆☆☆☆

http://www.soni-kogen.com/okame.html









2位>湯元山荘  湯の口温泉
 2位は三重県と奈良県と和歌山県の県境にある湯の口温泉です。今回年末に泊まりにいきました(笑)奈良県側から169号線でいく何度も奈良、和歌山、三重県境を越えていくので、不思議な気持ちになれます。閉鉱山の近くにある温泉なので、廃線を利用したトロッコに乗ることもできます。ポイントは、なんといってもコスパの良さと贅沢感です。贅沢感を感じる理由は、源泉掛け流しの温泉にあります。露天風呂から湯気を上げながらそのままドンドン排水路に流れ出ていく様をみていると、自然と贅沢な気持ちになって来ます(笑)。普段家で栓を入れずにお風呂を入れたりすると素でかなり落ち込んだりしますが、如何に自分が小さい人間か、この時だけは、自然そのままって豪華だなぁと思います。泉質はナトリウム、カルシウム塩化物泉とのことで、入浴したところ、そこまで尖ってはいない感じでしたが、有馬温泉の金の湯のような、湯上りのポカポカ感がかなりありました。

 宿泊施設は、バンガローなどの自泊施設だけですが、これを複数人で利用すると非常に格安になります。施設全体が2015年にリニューアルしたばかりなので、全般的にかなり綺麗で、その点でも非常に気持ちよく利用させていただくことができます。きっとこれだけ安いのは、温泉自体に加温や循環なしで全くコストが掛かっていないのが最大の理由なのでしょうか?正直申しまして、一発でかなりのファンになってしまいました。

評価☆
アクセス :☆
施設        :☆☆☆☆☆
泉質        :☆☆☆☆☆
雰囲気    :☆☆☆
総合評価:☆☆☆☆☆











1位> 十津川温泉 庵の湯
 堂々の一位には、十津川温泉 庵の湯を推したいと思います。この温泉は温泉そのものを楽しむという「一丁目一番地」に於いて出色の存在ですので、付属施設的には上述の二箇所にはかなり見劣りしてしまいますが、それでも敢えて一位に挙げさせていただきます。

 近くのバスターミナル近くの村営駐車場からに止めて、温泉施設に近づくと穏やかな硫黄臭が漂ってきます。その時点で良い温泉にきたような期待感がかなりグッと高まります。肝心のお湯のほうは、「源泉掛け流し宣言」をしている十津川村の温泉ですので、勿論源泉掛け流しです。加温は勿論、温度を落とすための加水もしていないので、ちょっと熱めのお湯加減の時があるように思いますので、やっぱり寒い季節に来たいですね。湯の花もかなり出てきていますし、嗅覚意外にも、視覚的にもまさしく、ああ、本当の温泉ってこうなんだな、と本当の温泉を堪能しているということを強く実感できます。施設も豪華とはいませんが、古びた感じは全くなく清潔ですし、ヒノキ風呂ですので、まさしくど真ん中の温泉という趣で、入浴そのものをたのしむには、全く過不足ありません。入浴後は、表で飲泉させて頂いたあと、足湯に浸りながら、湖の風景をぼーっと眺めて余韻を楽しむことができます。

 入浴料はたった四百円しかしませんし、十津川村には、残念ながら高速を使ってくることはできないので、お財布的には全く痛みはではないです。むしろ必要なのは、時間的な投入で、ここまで日帰りにて温泉に来ること自体、かなり贅沢な時間の使い方をしないといけないですが、入湯後は、わざわざ遠いところまで来て良かったと感じれますね!

評価☆
アクセス :☆☆
施設        :☆☆☆
泉質        :☆☆☆☆☆☆
雰囲気    :☆☆☆☆
総合評価:☆☆☆☆☆