2021年6月19日土曜日

【歴史本】「史記」「史記を語る」

  久々に比べ読みをしようという気になったので、大好きな「史記」と「史記を語る」の二つを取り上げたい。著者はそれぞれ貝塚茂樹と宮崎市定で、中国史に興味がある人なら何がしら必ず目にしたことがあるだろうというほどのビックネームである。

 こうして二冊を読み比べることで、貝塚と宮崎、二人の司馬遷像の微妙な視差をみるけることができる。貝塚の方の史記は、私が考えるに、比較的に常識的で一般に流布している?司馬遷像である。特に「史記」は、その一章と二章を使って、「任安に報じる書」を書いた司馬遷を生々しいまでに復元している。宮刑という恥辱に耐え忍んで、己の著作に全てを賭けた司馬遷像として、初読した時には私も随分と衝撃を受けたのを覚えている。刑死という人生の冬に迫る友人に対して、浮世での栄達や親孝行を全て諦めざるを得なかった(社会的)死者の独白、いわば書写機械として生きた司馬遷の最後の情念が見事に再現されている。貝塚史記の精華はまさしくこの現実の司馬遷の肉声の復元を行なった点にあるように思う。司馬遷の史記に対する思いは、列伝の巻頭に置かれる「伯夷列伝」に最もよく現れているとされる。「天道は是か非か」すなわち、善き行いをおこなった人物が必ずしも善く人生を全うできないのは何故か。天道が実際にはほとんど姿を見せない時、私はどうすれば良いのか。自らの不遇で皮肉な人生に対する司馬遷なりの答えが伯夷列伝なのである。

 そして、この「天道是非」についての司馬遷の答えに最終的に見事に焦点を定めたものが、宮崎史記だと言えるだろう。宮崎史記の特徴は、この岩波文庫一冊を読めば、見事に宮崎の史記観、司馬遷観が表現されていることに尽きる。もちろん、これは宮崎市定という色眼鏡をかけてみた史記観であり司馬遷観であることは言を俟たないが、司馬遷という歴史上のとある人物と真っ向から対峙するとき、主観抜きの客観など存在し得ないという点を考えれば、深く中国文献に沈溺した、歴史学者としての宮崎の主観を追体験できるという意味で、これまた得難い読書体験ができることは間違い無いだろう。実際、私の司馬遷についての像は、宮崎史記を抜いては何も語ることはできないだろう。宮崎の着想の素晴らしさは、伯夷列伝にある孔子の言う「仁」を「自由」と読み替えて見せたことだ。一般には「仁」と「自由」とは全く異なった概念であると考えられるし、それを同一線上に語ろうというアイデアも相当トッピに感じることだろう。しかし、宮崎は敢えてその両者を本質において同じものとみなし、それによって司馬遷という人をより深く掘り下げることに成功しているように思う。自由人としての矜持を伯夷列伝に、史記全体に、何より司馬遷本人に見出した宮崎の着想が気になる方は、是非一読をお勧めしたい。

 というか、今回は併せ読みを薦めるために書いているのだし(笑)、貝塚史記、宮崎史記を是非手に取って見ていただきたい。私自身は、既に社会人になってからこの両書に出会ったが、おそらくタイミングがもう少しはやければ、おそらく今のようにサラリーマンはしてなかっただろうな、というほど素晴らしい読書体験になることを保証する二冊である。





2021年6月5日土曜日

自作本の写真!!


「継続としての日本古代史」

「断絶としての日本古代史」

「接続としての日本古代史」

「魏書倭人伝の探究」

古代史に関する論考を突き詰めて、ついに四冊揃えることができました!

本業の合間で、コツコツと積み上げた論考が形になりました。