2019年11月9日土曜日

【歴史本】「論語の新しい読み方」「弟子」

今回取り上げたいのは、中島敦の「弟子」と、宮崎市定の「論語の新しい読み方」です。

 中島敦は、私が一番好きな作家です。高校の教科書で「山月記」に出会ったことは、私がいま、中国語を使って貿易関係の実務をしていることと、やっぱり関係有るんだろうと思います。進路を選ぼうとしていた高校生の私にとって、それほど、中島敦の文体は「美しい」ものだったと思います。

 さて、今回は、その中島敦の中でも私が特に好きな「弟子」とを取り上げたいと思います。「弟子」は、淡々と孔子とその弟子、子路の交流を描いた作品ですが、どうしてもその最後の1ページで、何度読んでもどうしても涙が溢れ出てきます。「弟子」の特色として私は下記の点が挙げられるかとおもいます。それは、

ー「孔子を儒教の聖人としてではなく、生身の人間として捉える」ー

という点です。この点で中島敦の「弟子」と全く同じスタンスなのが、宮崎市定です。「論語の新しい読み方」は、一個人としての孔子といわば孔子学園とも言える学びの場にて行われる弟子の遣り取りを非常に身近なものとして切り取っていきます。その中で宮崎市定は、孔子がその生涯を振り返って述べた有名な一文について、新鮮な読みを提示します。

ー「七十にして、心の欲するところに従い、矩(のり)をこえず。」ー

(吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順。七十而従心所欲不踰矩)

普通この文は、孔子が段々と徳を積んで、70歳になり誰にも及ばない聖人の境地に立ったのだ、と解釈します。しかし、宮崎はこの一文を「孔子が自身の気力の衰えたことを嘆く言葉」として捉えます。私もここはやはり宮崎の読みの鋭さに大いに共感します。70歳を超えた孔子の身に振りかかったもの、それは決して幸福な出来事であったとはおもえないからです。

歴史上に実在した個人としての孔子は、74歳になくなりますが、その最晩年には、どうも言いようのない寂しさが付き纏っているように思います。BC481年、72歳の時、まず孔子が愛した弟子とも言うべき顔回が無くなります。孔子の悲しみは非常に大きく「天が私を滅ぼした!(天喪予!)」と嘆きます。更には、同年、魯国の西で狩りが行われ、麒麟が捕らえられたと聞き、平和な世に現れるはずの吉祥である麒麟の遺骸をみて、「我が道は行き詰まった!(吾道窮!)」と嘆き、それまで描いてきた「春秋」という歴史書を書くのを止めてしまいます。

そうして、その翌年、BC480年にまたもや、愛すべき弟子であった子路が就職先の衛国の動乱に巻き込まれて死んでしまい、先立たれたことを伝え聞くのです。中島敦は「弟子」の最後において、子路の死をこう簡潔に叙述します。

ー「『見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!』
全身を膾(なます)の如くに切り刻まれて、子路は死んだ。ー

その死の知らせを聴いた孔子は、潸然と涙を流します。 ここには「聖人」のものなどではなく、孔子、一個人の隠しようもない悲憤、やるかたなさ、剥き出しの感情があるように思います。

中島敦の「弟子」、宮崎市定の「論語の新しい読み方」。決して新しくはない本ですが、読まれていない方は、是非手にとってみてください。ちなみに私が毎回涙してしまう、子路の最後の言葉ですが、「史記・衛康叔世家」には、

◾︎「子路曰『君子死、冠不免』結纓而死」
岡上訳:子路は「君子は死しても冠は免ぜられず」といって、冠の紐を結んで死んだ

と有ります。自らの冠(職位)に殉じた子路の死を的確に表現した司馬遷は、流石に名文家です。


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