2026年6月12日金曜日

🔗三国志巻三十烏丸鮮卑東夷伝の多層構造論


 小論文を判別子付きで公開しましたので、ブログにリンクと全文をアップします!

これで、この倭人伝の多層構造から読み解く論点は、私の発案に掛かることになりました。

十年単位ぐらいで評価されれば良いなーと思っています。youtubeの再生は小難しい話なので、それにしても、再生回数がぜんぜん伸びませんね。笑

https://zenodo.org/records/20564765


ーーー本文ーーー


三国志巻三十烏丸鮮卑東夷伝と多層構造論


岡上  佑


はじめに


一般に「魏志倭人伝」と通称される「三国志巻三十・烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の記述は、 難解である。特にその女王が都した所である「邪馬台国」の所在位置についての論争は、畿 内説、九州説と諸説が入り乱れ、結論は出ていないことは周知の事実である。本論では「魏 志倭人伝」が所収されている「三国志巻三十・烏丸鮮卑東夷伝」のテキストを改めて批判す ることで、撰者である陳寿の編纂手法の再構築を試み、「魏志倭人伝」を読み解く基礎的研 究を見直す端緒になれば幸いである。


第一節  烏丸鮮卑東夷伝の特殊さ


さて、「三国志巻三十・烏丸鮮卑東夷伝」は非常に特殊である。ここでいう特殊とは、内 容が難渋であるということではなく、同じ三国志内のその他の巻と比べて、その構成が違っ ているということである。具体的に何が特殊かといえば、巻頭に序文があることである。三 国志全六十五巻のうち、序文があるのは、巻五・后紀伝と巻三十・烏丸鮮卑東夷伝の二巻の みである。序文があるだけでも特殊といえるが、烏丸鮮卑東夷伝には、実は更に非常に特殊 なことに、序文が二つも存在する。


具体的に本文に即して「烏丸鮮卑東夷伝に二つの序文があること」を確認すると、巻三十 の巻頭には、


①書載「蠻夷猾夏」詩稱「玁狁孔熾」久矣。 (『尚書』には「蛮夷たちが中華の地を乱す」という記事があり、『詩経』は「玁狁の勢いが はなはだ盛んだ」と述べている(※一)。


とあり、そこから序文が始まる。その後、烏丸族および鮮卑族の記述が終わると、今度はま た、


②書稱「東漸于海、西被于流沙」其九服之制、可得而言也。 (『尚書』には「東は海に入るまで、西は流砂に及ぶまで[の地域に、中国の教化が広がっ た]」と書かれている。[すなわち]こうした九服の制度に含まれる地域については、確かな 根拠をもってそれを述べることが可能なのである。」)


と、尚書を引用した序文があり、東夷諸族についての説明が始まっている。 これらの①②のセンテンスは、共に「書載…」と「書稱…」の書き出しで呼応の様子を示 しており、①②をともに序文と見做して良いことを示している(因みに后紀伝の序文は「易 稱…」で始まっており、序文において冒頭で古典から警句を引くのは、常套手法と推察され る。)。


こうして、形式上は一巻として扱われる「烏丸鮮卑東夷伝」は、その序文のあり方だけに 注目しても、それぞれに序文を持った「烏丸鮮卑伝」と「東夷伝」という独立した二伝を併 せたものだと推測することができる。


しかし、実質的に二伝が合併されて構成された三国志巻三十は、あくまでも形式的には一 巻である。これは、巻末に「評して曰く」から始まる撰者・陳寿自身の評文があることから わかる。巻末に陳寿による評文が置かれることは三国志全六十五巻に一巻の例外もない。陳 寿としては、形式上はあくまで「烏丸鮮卑東夷伝」は、一巻として編纂した為、評文は一つ しかないのである。


つまり、烏丸鮮卑東夷伝は、陳寿が整えた体裁、形式的には一巻であるにも関わらず、実 質的には、それぞれが独立した「烏丸鮮卑伝」と「東夷伝」の内容を併せ持つ。


このことが三国志巻三十の特異な点であり非常に特殊と言える理由である。一巻に序文 が二つ、評文が一つという形式を持つのは、三国志全六十五巻の中、この巻のみである。本 稿ではまずこの基本的な事実を前提として確認しておく。


第二節 何故に非常に特殊なのか? 


本節では、三国志巻三十が、何故に他の五十九巻が持たない非常に特殊な構成を持つに至 ったのかを検討する。


結論を言えば、筆者はこれを陳寿が手元にあった先行史料である「王沈魏書(魏王朝にて 王沈らが国史として編纂したもの(※二)」の中にそれぞれ個別にあった「魏書・烏丸鮮卑 伝」と「魏書・東夷伝」を編纂し、(多少の手を加えた上で)一巻にまとめたからだと考え る。


すなわち現存する「魏志・烏丸鮮卑東夷伝」は、陳寿はあくまでも編纂者にすぎず、彼の 手元には元々から「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東夷伝」が独立してあったのではないか、 ということだ。このことは、特に魏志・烏丸鮮卑伝の内容を検討すると分かり易い。その序 文の終末部分には、こう書かれている。


③其習俗前事撰漢記者、已錄而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。 (その習俗や来歴については、漢代の記録者たちの書物に見える。それゆえここでは、漢末 魏初以降の出来事だけを取り上げて、四方の異民族のおこした事変の記録に欠けた部分が ないようにしようとするのである。) この③のセンテンスは、筆者は陳寿自身が編纂した際に挿入したものと推測するが、ここ に言うように、陳寿魏志の烏丸鮮卑伝では、漢末魏初以前のことが、大幅にカットされてい るのである。では何故、本来、魏書にあった「烏丸鮮卑伝」の一部が陳寿によってカットさ れていることが断定できるかというと、これは、三国志に注釈を入れた裴松之が、この陳寿 魏志が魏書よりカットした部分を補注として、全文を引用してくれているからである。つま り、陳寿の手元には、裴松之が引用した「魏書・烏丸鮮卑伝」があり、そこから「漢末魏初」 以前のことをカットしたものこそが、陳寿の手による「魏志・烏丸鮮卑伝」に他ならない。


このことは、裴松之が引用した「魏書・烏丸鮮卑伝」と、「魏志・烏丸鮮卑伝」それぞれ の記事部分の実質的な書き出しを比べて見ると、より明瞭に把握することが出来る。 裴松之の引用した「魏書・烏丸条」は冒頭部分こうである。


④烏丸者東胡也。漢初、匈奴冒頓滅其國… (烏丸は[古の]東胡である。漢代の初め、匈奴の冒頓単于がその国を滅ぼし…)


一方で、「魏志・烏丸条」の書き出しは、こうである。


⑤漢末、遼西烏丸大人丘力居、衆五千餘落。 (漢の末年、遼西烏丸の大人、丘力居は五千余の落を配下に置き…)


どちらが烏丸についての記事についての書き出しとして、自然であるかは明らかである。⑤ では、「漢末魏初」以前のことがカットされており、書き出しに唐突感があるのに対して、 ④は、非常に丁寧な書き出しである。 同じように鮮卑条についても、魏書と魏志の書き出しについて、確認しておこう。こちら はより顕著に陳寿の編纂の痕跡が理解できる。


裴松之の引用した「魏書・鮮卑条」の書き出しはこうである。


⑥鮮卑亦東胡之餘也。 (鮮卑も東胡の遺民である。)


対して「魏志・鮮卑条」の冒頭には、こうある。


⑦鮮卑步度根既立。 (鮮卑は步度根が首領になってから…) ここでも、⑦の陳寿魏志では、いきなり「鮮卑の步度根がすでに立った」と切り出されて おり、読む側に鮮卑についての前提知識が無ければ、当惑する以外にない。対して⑥は、烏 丸についてと同じく、鮮卑とは何者か、から書き出されており、非常に丁寧である。


これら烏丸鮮卑伝から読み取れる史料操作の痕跡こそ、陳寿が行った「漢末魏初以降の出 来事だけを取り上げる」ことの実態であった。現代的な観点で見れば随分と大雑把な編集に 感じるが、陳寿は、魏書・烏丸鮮卑伝のテキストから「漢末魏初」以前のことを大幅に刪落 し、その分量を落とした上で、別にあった「東夷伝」と合併し、一巻としたのである。


第三節 「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東夷伝」 


ここまで、陳寿が「魏志・烏丸鮮卑伝」でおこなったであろう史料操作を確認してきた。 魏書・烏丸鮮卑伝については、裴松之の補注により、陳寿がカットした漢末魏初の事績を読 むことができるので、その全体を復元することは、そう困難なことでは無い。それに対し、 陳寿の手元にあった「魏書・東夷伝」とは、本来、どの様な内容だったのだろうか(※三)?


私は、陳寿によって編纂される前の「魏書・東夷伝」については、現行の「魏志・東夷伝」 とほぼ同じ内容であったのではと推測する。特に「魏志・東夷伝」では、「魏志・烏丸鮮卑 伝」と違って「漢末魏初以前のことをカットする」ような史料操作も行われていないようで あり、漢代の出来事も普通に記載されている。それ故「魏書・東夷伝」と「魏志・東夷伝」 は、内容的には略々同じだったのだろう(※四)。


こう考えるには、理由があり、それは「魏志・烏丸鮮卑東夷伝」の記事について、陳寿 自身が積極的に加筆したと思われる形跡がないからだ。これは、烏丸鮮卑伝と東夷伝のそれ ぞれの「下限年代(最も新しい記事の年代)」に注目して見ると、分かり易い。


三国志巻三十の記述にて確認出来るとおり、「魏志・烏丸鮮卑伝」の下限記事は、明帝・ 曹叡の景初年間であり、「魏志・東夷伝」の下限記事は、少帝・曹芳の正始年間までである。


もし、陳寿がこれらに加筆しようとすれば、その後にも、曹魏の皇帝は曹髦、曹奐と続い ているのであり、然るべき史料を蒐集し、手元の史料に加筆する事が出来たはずである。だ が、実際には陳寿はそのような(手が掛かる)仕事はせず、「魏志・烏丸鮮卑東夷伝」に於 いて、烏丸鮮卑については、明帝・曹叡の景初年間止まり、東夷についても少帝・曹芳の正 始年間止まりのままである。言うなれば、魏志において最終巻という最も目立たない場所に おいて、陳寿は元史料をアップ・トゥ・デートして、魏末までの記事を補う努力を行っていないのである。


このように書けば、陳寿の編纂姿勢に対する評価として厳しく響くかもしれないが、筆者 は、陳寿が「烏丸鮮卑東夷伝」の「著者」でなく、「撰者」に過ぎないと考えている。本稿 ではこの点を強調したい。この認識は「烏丸鮮卑東夷伝」の表面上をなぞるのではなく、そ の行間を深く読んで行くにあたっては、非常に大きな差異だと言える。結論を先に言えば、 私は「烏丸鮮卑伝」と「東夷伝」の実質的な著者は陳寿ではなく、「魏書」を編纂した王沈 らを代表して、曹魏時代、当時の政権中枢である中書省・秘書省のメンバーを想定している。


第四節 記事の「下限年代の差」を考える 


さて、前節のとおり、魏志の烏丸鮮卑伝については、明帝・曹叡の景初年間止まりであり、 東夷伝については少帝・曹芳の正始年間止まりであって、それらが下限の年代である。そう すると、「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東夷伝」の間にも、僅かながら編纂の時代が違う のではないかと、推測が出来る。


■魏志・烏丸鮮卑伝の下限年代:明帝(曹叡)の景初年間


■魏志・東夷伝の下限年代:少帝(曹芳)の正始年間


これを念頭に改めて烏丸鮮卑伝と東夷伝を見比べてみると、東夷伝にのみ、それぞれの記 事(高句麗条、韓条、倭人条などのこと)の終わりの部分には正始年の年号から始まる正始 年間についての記事があり、なにか、元々あった文章に対して最後に追記されている様相を 呈している。こちらについては、代表的なセンテンスを数例挙げておこう。


■魏志東夷伝・高句麗条


⑧正始三年、宮寇西安平。其五年、爲幽州刺吏毋丘儉所破。語在儉傳。


■同・濊条


⑨正始六年。樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵、以領東濊屬句麗、興師伐之〜。其八年、詣闕朝 貢、詔更拜不耐濊王〜。


■同・倭人条


⑩正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國〜。其四年〜。其六年〜。其八 年太守王頎、到官。


これら⑧⑨⑩は、記事の末尾部分で、全て正始の年号から始まっており、追記的な様相を 示している。私はこれら正始年間についての追記記事のことを「正始記事」と呼称している。 特筆すべき点は、これら正始年間についての追記記事は、東夷伝のみに存在し、烏丸鮮卑伝 には存在しないことである。つまり、陳寿が合併させた「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東 夷伝」の間には、下限記事の年代差(「正始記事」の有無)という点で明瞭な差異が存在す るのである。


また、この正始年間についての追記部分では、「其何年」というように「其」字が入って いることも重要である。通常、三国志の他の部分では、同年号にて記事を書き継ぐ場合には、 すべて単に「何年」とか書かれている。この事実は、三国志全体の中でも、東夷伝における 「正始記事」が如何に例外的であるか、その特異性を鋭く際立たせている。


さらに深く検討してみると、実は、三国志の本紀にあたる巻四・三少帝紀の正始五年九月 条では、鮮卑族が内附し、昌黎県を立てたという記事がある。これは本紀に載せるほどの大 事件にも関わらず、陳寿は、このことを肝心の烏丸鮮卑伝では伝えていない。看過できない 矛盾である。これを説明するには、烏丸鮮卑伝が実際に執筆された時制において、まだ正始 年間は記述の対象ではなかった、という以外には、合理的な説明は困難である。仮に烏丸鮮 卑伝が東夷伝と同時的に記述されていたなら、東夷伝と同じく、烏丸鮮卑伝にも正始年間に おこった鮮卑内附という大事件を追記することも出来たはずである。が、実際はそうでなく、 烏丸鮮卑伝の時制は、曹叡の時代で完了したまま放置されている。


こうして下限年代について考えてみると、「正始記事」の有無という点から見て、烏丸鮮 卑伝と東夷伝は執筆の対象時期に差異が存在することになる。この差異に注目することで、 東夷伝編纂の手法を更に鮮明に見極めることが可能になるのである。 章を改めて考える。


第五節 二つの序文を比較する 


さて、本稿では、烏丸鮮卑伝と東夷伝は、もともと別個の史料「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏 書・東夷伝」という二つの独立した文章で、陳寿が二伝を合併させたという事態を想定して いる。それでは、それらの序文は、それぞれ陳寿がゼロベースから陳寿が書き起こしたもの だろうか。それとも「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東夷伝」に元々から序文として存在し たものだろうか。


一般に、三国志は陳寿の編纂物であるから、それらの序文は何らの疑念なしに陳寿の著作 にかかるものだと考え、この点を検討することはあまり無いだろう。しかし、この序文を下 限年代という視点でみると、序文以下の本文にあたる部分と、下限の年代が一致しているの である。


烏丸鮮卑伝での序文と本文の下限記事は、こうである。


■烏丸鮮卑伝序文の下限記事:明帝(曹叡)青龍年間

■烏丸鮮卑伝本文の下限記事:明帝(曹叡)青龍年間

(序文、本文ともに王雄の刺客による軻比能殺害の記事がある。)


対して、東夷伝の下限記事はこうである。


■東夷伝序文の下限記事:少帝(曹芳)の正始年間

(内容に正始年間にあった王頎による高句麗王・位宮追撃の記事の反映がある。)


■東夷伝本文の下限記事:少帝(曹芳)の正始年間 

(濊条・倭人条と正始八年の記事がある。) 


こうしてみると、烏丸鮮卑伝は、序文・本文ともに明帝までの事績が下限記事であり、そ れに対して東夷伝は、本文の正始年間の記事の反映をその序文にも読み取ることが出来る。 つまり、東夷伝においては、正史年間の記事を追記した人物が、その序文を書いた可能性が 高い。私はこの下限年代の差を重大な根拠として、魏志烏丸鮮卑東夷伝に特異的に残る二つ の序文は、陳寿の書き起こしたものではなく、それぞれ、魏書烏丸鮮卑伝、魏書東夷伝に元 から備わっていたものを、陳寿がそのままに合併して二巻にしたものと考える(※五)。


確認の為、烏丸鮮卑伝、東夷伝の下限年代についての特徴を再掲する。


■烏丸鮮卑伝:序文は明帝期まで。本文も明帝期まで。

■東夷伝:序文は斉王期まで。本文も斉王期まで。

*ただし東夷伝の本文に見える斉王期・正始年間の記事は、追記的に記述される傾向がある。


こうして纏めると一目瞭然であるが、東夷伝には、烏丸鮮卑伝にない「正始記事」が、追 記され、その後に、序文が書かれていることが分かる。つまり、烏丸鮮卑伝は一系統の記事 にて明帝期(景初年間)まで記載されていることに対して、東夷伝は「ベース部分」+「追 記部分(正始記事)」という構造を持っていることが認められるのである。


さて、ここで編纂の手法について検討すると、この「追記」という行為は、なにも末尾部 分にのみ追記するだけでなく、記事の途中に挿入する形でも行うことが出来る。では、その 様な例を東夷伝本文から見つけることは出来ないのだろうか。そんな疑念を持って東夷伝 を読み直した時、筆者は、他ならぬ倭人条において、明らかな二箇所の挿入箇所を発見した のであった。章を改める。


第六節 倭人条における二箇所の挿入


 倭人条に於けるセンテンスの挿入は、私が「文化記事」と呼ぶ箇所の中に二箇所認めるこ とができる。文化記事とは、倭国への旅程などを記した部分に続く部分で「男子無大小皆黥 面文身」から始まり「周旋可五千餘里」で終わるおおよそ千文字の部分のことである(倭人 条全体が約二千文字なので約半分)。


この文化記事の中には、文章の流れがスムーズで無い部分が複数箇所あり、私は従来から 何らかの史料操作の結果ではないかと疑っていたが、今回、二箇所の明らかな挿入部分を発 見し、ここで指摘し、紹介することが出来ることは、まことに僥倖である。


まず、一箇所目の挿入である


⑩所有無与儋耳朱崖同(倭地温暖〜中略〜其持衰不謹)出真珠青玉。


このセンテンスは、文章の途中にいきなり「倭地は温暖である」と入り、唐突感がある。 読み手としては、文脈上、ここまで既に「倭国の文化」について語られていることは明らか なのに、ここで改めて「倭地温暖」と書かれているのが不自然で、もし「其地温暖」と書か れていれば、ここまでの不自然さはなかった。実はこの「倭地温暖」からが長い挿入文なの である。この挿入文は、「倭地温暖」から始まり、その後もつらつらと倭人の独特である「持 衰」についての見聞録のような内容になっていく。そして、それが終わると、今度は、いき なり、「出真珠、青玉」と、主語が省略された形で、倭国の産物についての話題が再開する。 読み手は、「持衰」の具体的な話から、唐突に倭国の産物に戻される形となり、文脈の不整 合が著しい。ただ、この「倭地温暖〜中略〜其持衰不謹」部分が挿入された文であると理解 できれば、これらの文章の乱脈は、あっさりと解消される。


⑪イ  所有無与儋耳朱崖同、出真珠青玉。

⑪ロ  倭地温暖〜中略〜其持衰不謹


⑪イの文章は「その有無する所は儋耳朱崖と同じくして真珠、青玉を出だす」と自然に読 むことが出来るようになり(儋耳朱崖、現在の海南島の特産も真珠と玉類である)、その間 に別系統の文章、「倭地温暖」から始まる長い一文が挿入されているのである。挿入された ⑪ロの文章は、とても臨場感がある見聞録的な文体で、それまでの事務的な説明口調とは違 う点も指摘したい。


さらに、もう一箇所の挿入場所である。


⑫見大人所敬、但搏手以當跪拜(其人寿考〜中略〜詣女王不得差錯)下戸与大人相逢道路、 逡巡入草。


この部分についても同じである。倭人の中での身分の上下についての話が、急に倭人の寿 命の話に変わり、そのまま伊都国から女王への「賜遺之物」への話と話題が流れていき、そ してまた、唐突に下戸と大人の話に戻っている。この部分も読んでいて乱脈を感じざるを得 ないが、下のように挿入の関係を解消してやると、途端に文意の通る記述として復元される。


⑫イ  見大人所敬、但搏手以當跪拜、下戸与大人相逢道路、逡巡入草。  

⑫ロ  其人寿考〜中略〜詣女王不得差錯。


ここでも一例目と同じように、⑫イは、「その大人が敬される所をみるに、ただ拍手をも って跪拝とし、下戸が大人と道路で相い逢えば、逡巡して草に入る。」と極々自然な文化に ついての説明的文章が復元する。そして、挿入されたであろう⑫ロの文章は、⑪ロの例と同 じくして、実際に倭国に遣使した人物によるかのような見聞録的な性格がある。 このように東夷伝(倭人条)には、比較的容易に発見出来る文末に追記された「正始記事」 があるとともに、その文中にも、ベース部分に対して挿入された文章が存在するのである。 今回、私は、倭人条の文化記事において二箇所の挿入句を指摘したが、東夷伝全体では乱脈 で読みにくい文章になっている場所は、扶余伝などにも存在しており、おそらくは文中への 挿入というものは、探せば他にもあることだろう(※六)。


第七節 何故、追記は「正始八年」どまりなのか? 二つの挿入句の発見によって、東夷伝が「ベース記事」と「追記記事(正始記事)」の構 成を持っていることは、筆者には極めて蓋然性の高い文献的な事実に思える。では、何故に 追記記事は、正始年間の記事に終始して、同じ斉王・曹芳の治世である「嘉平年間」につい ての言及が全く無いのであろうか?


仮に国史編纂の現場において、皇帝の代替わりごとに編纂作業が進んでいくとす ると考 えるなら、斉王・曹芳の治世の後半である嘉平年間の記事が、東夷伝に全く存在しないのは 不自然である。特に倭人条では狗奴国の争いの結末が全く語られず、尻切れ蜻蛉のような印象を受ける。


この疑問に対しての答えは、正始記事の情報源を具体的に考えて行くことで見えてくる。 東夷伝における正始記事には、その序文にも反映されている通り、幽州刺史の毋丘倹の高句 麗遠征の記事がある。中でも毋丘倹麾下の武将である王頎が、逃亡した高句麗王位宮を追っ て、北沃沮の果てにまで遠征し、その地の長老から、東の果てについて奇怪な話を聞いたこ とまでも反映されている。この王頎は倭人伝の正始八年条にて帯方郡に着任してきた太守 でもある。


詳細に検討すれば、三国志の記す内容の範囲で判断する限り、正始年間に北沃沮の果てで その地の長老の話を聞き、なおかつ倭国へ部下を派遣して、それらを見聞録として書き留め ることができた人物としては、我々はこの王頎本人以外の人物を合理的に推定することは できない。あくまで合理的仮説の域ではあるが、東夷伝に追記されている正始記事の情報源 は、王頎によりまとめられた「東夷見聞録」とでも仮称すべき記録以外に考えることはでき ないのである。


では、何故、魏書・東夷伝の追記材料に用いられた、この王頎の「東夷見聞録」は、あく まで正始年間止まりなのであろうか?この疑問への応答は、王頎が、幽州刺史の毋丘倹麾下 の郡太守であったことに関係する。毋丘倹は、直属の配下である王頎を時に玄菟太守として、 時に帯方太守として東夷各地に派遣している。つまり、王頎の取りまとめた「東夷見聞録」 とは、事実上は上司、毋丘倹への報告書に他ならない。そしてこのことが東夷伝への追記が 「正始八年」でプツリと途絶えているかの説明になる。


実は毋丘倹の動向を調べてみると、おそらく正始九年には、幽州刺史の任を解かれ、新た に豫州刺史として任命されているのである。このことは、毋丘倹の後任の幽州刺史に任命さ れた杜恕が、赴任早々にイザコザを起こし、遅くとも嘉平元年に、罷免されていることから 年代を確定できる(※七)。


つまり、東夷伝が正始八年どまりで、正始九年以降の記事が一切見当たらない理由として は、毋丘倹自身が幽州刺史の任から外れ、一旦は中央・洛陽に復命したであろうということ が、合理的に推論することができるのである。管見の限りでは、東夷伝が正史八年条で尻切 れ蜻蛉の如くその記述を終えていることについての合理的説明は、この「毋丘倹帰任説」以 外には考え難い。


なお、私説を補強する材料として、正史三国志に現れる毋丘倹という人物が、実は文人的 な要素を多分に持った当時一流の知識人であることが挙げられる。実際に彼の書いた上表 文や詩文が三国志本文や裴松之の引注に存在している。特筆するべきは、自身の公孫政権討 伐など幽州刺史時代の事柄を「志記」なる著作にて記録していたことが、裴松之の注から知 ることが出来ることである(※八)。


更に推論を進め、当時の状況を勘案すれば、このように文人的要素を強く持っていた毋丘 倹が、自身の遼東公孫氏、高句麗征伐などの遠征録として「志記」を著し、それを正始九年 の洛陽凱旋時に洛陽中枢に奏上したと推察される。その「志記」には、当然ながら部下であ り高句麗遠征に付き従い、玄菟・帯方郡太守などを歴任した王頎の見聞録が反映されていた はずであり、その新情報が、王沈らによる曹魏国史編纂の際に取り込まれ、東夷伝ベース部 分への追記されたのであろう(※九)。


第八節 「東夷伝のベース」の編纂時期と原資料 


前節にて、東夷伝に見える追記的記事(正始記事)についての原資料が毋丘倹の「志記」 であることを推測した。それでは、追記された側の史料、つまり東夷伝ベース部分について、 いつ誰が編纂したかを推測することはできるだろうか。これは一件、推測する手掛かりが存 在しないように思われるが、テキストの分析から推測が可能である。


すでに私はここまでの論考にて、王沈らによる魏書編纂過程にて毋丘倹の「志記」を追記 し、その追記した人物が東夷伝の序文を書いたと推測した。とすると、東夷伝のベース部分 が執筆されたのは、当然、王沈が魏書を編纂した正元年間(254〜256年)以前ではな いか、という予想を立てることが出来る。


このことを念頭に東夷伝を読み直して見ると、その本文には、かなり不用意に「今」とい う表現が使われていることが思い出される。これは内藤湖南の「卑弥呼考」にて冒頭で指摘 されているとおり、邪馬台国論争の極々初期から既に指摘されていることである。そして実 は、高句麗条のとあるセンテンスに於いて、この「今」の時制を特定することが出来る。


⑬今句麗王宮是也。 (現在の句麗王の位宮がこれである。) 


つまり、東夷伝のベース部分が書かれた時制というのは、高句麗にて位宮が王であった時 代、則ち224年〜248年頃の事であったということである。そのうち景初二年(237 年)までは、公孫政権が遼東に蟠踞しており、魏国中枢にて東夷との通交がとれたとは思え ないので、倭人伝を含む東夷伝は、景初三年(238年)元日の明帝崩御、少帝即位から程 なく、高句麗王位宮が丸都を抜かれる正始五年(244年)までに、おそらくは斉王即位に 合わせ、明帝の治世までを対象にして記載されていたという事であろう(※十)。


また、こうした編纂当時を表した「今」示す時制が、その後の編纂を通じてそのままに放 置され、陳寿の魏志・東夷伝まで温存されていること自体が、三国志巻三十烏丸鮮卑東夷伝 を陳寿がゼロベースから書き起こしたものでなく、原資料が幾層にも積み重なったレイヤ ー構造(多層構造)をなしていることを強く示唆している。


第九節 三国志巻三十烏丸鮮卑東夷伝の「多層構造論」とその帰結 最後の纏めとして、三国志巻三十烏丸鮮卑東夷伝の構造の再整理を行いたい。 まず、曹魏の国史編纂の事業の一環として、少帝(曹芳)の即位後、明帝期までの事績を 編纂対象として、「魏書・烏丸鮮卑伝」と「東夷伝ベース」がそれぞれ編纂された。我々が 見ることができる「魏志・烏丸鮮卑伝」は、大略、この「魏書・烏丸鮮卑伝」から漢末魏初 以前の事績を陳寿が刪落しただけのものである。


その後、斉王退位と高貴卿公即位を機会として新たに、正元年間(254〜256年)に 王沈を主筆とした国史編纂事業が進展した。その際、正始年間の終わりに凱旋帰国した毋丘 倹が奏上した東夷についての最新報告を含む「志記」を参照し、先述の「東夷伝ベース」に 「正始記事」を追記した「原東夷伝(=魏書・東夷伝)」が成立し、その序文についてもそ の際に新たに書き起こされた。


最後に、時代は移り変わり、西晋による孫呉の併合が行われたの280年ごろ、西晋の中 央官僚で著作郎であった陳寿が、上述の「魏書・烏丸鮮卑伝」と「魏書・東夷伝」を併合し、 最後に評文を付け加え、三国志全六十五巻の中の一巻とした。三国志巻三十・烏丸鮮卑東夷 伝である。


以上が、後世の日本で絶えることのない論争を呼び起こした邪馬台国の所在位置論争の 本質、「魏志倭人伝」の成立過程である。 


おわりに 


「魏志倭人伝」の研究においては、今回示した成立の経緯を念頭に置き、それを一系統の 史料として読むと不自然な点や矛盾点があることを十分に認識する必要がある。実際に読 み込みたいセンテンスの原資料が、ベース記事に属するのか、それとも追記記事に属するの か、ということを判別することが、今後の研究の第一歩となってくる。特に「邪馬台国の所 在位置論争」において、必須の論点である旅程記事の読解について、それが 里程と日程に よる二系統の記述が混在していることについては、東夷伝が持つ「レイヤー構造(多層構造)」 を十分に吟味した上で進めるべきである。


尚、私自身の「邪馬台国所在位置論争」への結論については、既に別稿にて記載している ので、ここでは論じない(※十一)。本論による研究が、「邪馬台国の所在位置論争」への新 たな一石となることを願って止まない。


 ≪注≫ 


〈一〉以降、本論の三国志本文の和訳は、基本的に全て、ちくま学芸文庫「三国志(全八巻)」 を参考としている。


〈二〉以降、本論では、判別のために、陳寿の編纂したものは必ず「魏志」といい、魏王朝 で編纂されていた陳寿が編纂する前の歴史書のことを必ず「魏書」と呼び、厳密に区別する。


〈三〉魏志・東夷伝に引かれる裴松之の注は、魚豢の魏略からのみであり、この事実から「王 沈魏書には東夷伝はなかった」と推論する考えもあるが、ここでは論じない。魏書であれ魏 略であれ、陳寿が、何らかの史料をみて編纂したこと自体は疑いない。


〈四〉魏志・東夷伝と魏書・東夷伝がほぼ同内容だったために、裴松之の補注が存在しない のではと私は予想している。本文に大きな差異が無ければ補注する必要性がないためであ る。


〈五〉それぞれの序文内容には立ち入って検討しないが、異民族に対する姿勢として、烏丸 鮮卑伝では排除的、一方の東夷伝は包容的と、その内容的にも同一の著者の手によるものと は考え難い。本論で挙げたそれぞれ冒頭での尚書の引用文は、短いながらも、そのスタンス が顕著に現れている。


〈六〉ちくま学芸文庫「正史三国志4、扶余条」の注16にて記述の混乱が指摘されている が、おそらくはこれも直前に「正始記事」が挿入されたことによる混乱だろう。


〈七〉杜恕は、司馬懿と折り合いが悪かったらしく、正始年間の終わりに幽州刺史へと左遷 され、代わりに公孫政権討伐にて司馬懿と行動を共にした毋丘倹が中央に返り咲いたのだ ろう。本論とは全く関係がないが、考えて見ると、この人事は司馬懿による正始政変の直前 というタイミングであり、留意すべき点ではある。


〈八〉毋丘倹が明帝曹叡・少帝曹芳などに度々上奏していることは、三国志および裴松之注 に見える(巻三・三少帝紀、巻二十二・衞臻伝、巻二十八・毋丘倹伝など)。またその著作 である「志記」については、魏志三巻明帝紀景初二年条・裴松之注にその名が見える。尚、 「毌丘(カンキュウ)」ではなく「毋丘(ブキュウ)」の方が正確であるという説が有力とな っている。本筋の議論ではないが、本論では、研究成果を踏まえ「毋丘」で統一している。


〈九〉「『魏志』倭人伝の原史料 (辻尾榮市氏古稀記念 歴史・民族・考古学論攷)」 西川寿 勝(2019)にて、毋丘倹の「志記」と東夷伝の関係が推測されている。管見の限りでは 東夷伝研究の文脈では唯一の言及例かと思われる。


〈十〉「東夷伝ベース」の編纂については、私は少帝・曹芳即位後の第二回の国書編纂事業 によって、「韋誕」らに主催されて書かれたものと考えている。詳しくは季刊邪馬台国14 4号所載「正史三国志の史料批判からみる邪馬壹国所在位置論争の結論(岡上佑)」を参照。


〈十一〉筆者の所在位置論争への結論は、上述論文を参照。

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