2021年1月14日木曜日

5ch テンプレ反論① FAQ 30

*20211月現在のテンプレに反論。

*ログに流れるのも徒労感あるので、まずはブログにアップ。


◆FAQ 30 

Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ! 

  箸墓の築造と時間差があるだろう! 


A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。 

 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。 

「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。 

 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 


 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。 

 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 

 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。 

 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。 

「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)(結果)」の時系列で読むのが順当である。 


 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。



—————以下反論


 「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。 

 特殊ではなく、以と已は、普通に通用している。内藤湖南・藤堂明保等も已で解釈。三国志での通用の用例も多数ある。


 ■ 「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 

 意味不明。已の用法を会話文の発話時点?に限る必要はない。ここでは地の文で用いられており、正始8年の時点で、張政が到着した時に卑弥呼は已に死んでいた。


   已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。 

 時系列云々が意味不明。 なお、已葬は、「動詞+目的語」の句で、「葬が已めば」と読む。 (上記読みは同じく藤堂明保「倭国伝」での読み)


■ 「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)(結果)」の時系列で読むのが順当である。 

 例示は全て「以」が導く句を省いても、そのまま主語術語の関係が維持されている。すなわち「田豐見誅」「騭免」「彪罷」となり意味が通じる(田豐は誅殺され、歩騭と楊彪は、罷免されている)。対して、「卑弥呼以死大作冢」は、以を前置詞として「以」が導く句を省くと、「卑弥呼大作冢」となり主述の関係がおかしくなり、(卑弥呼が冢を作ったわけでは、当然ないので)意味が通じない。つまり、文の構成が、3つの例示のある「(主格)以(原因)(結果)」と読みと、「卑弥呼以死大作冢」とは、以の文字の使われ方・文の構造が違うということである。


■ 繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である

 「繰り上げて」という意味が不明。記載の指示がないので張政の帰国に伴う壹與の初遣使も正始8年条の話と考える以外は勝手読みの類となる。


■ 倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、

 →「倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っている」ということはない。全て正始8年条の話。


張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い

 「嘉平限断論」は晋書作成の際の議論で基本的に三国志とは無関係である。三国志には当然ながら嘉平年間以降の記事もある。本紀としても元帝曹奐まで記されている(列伝中の記事としても太康5年の記事(孫晧の死)まである。)東夷伝においても、陳寿は当然ながら正始8年以降の記事を書くことはできたが、実際にはそうではない以上、正始8年条で始まる記事は、正始8年の出来事と捉えるのが、文章によった正しい読み方である。

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