2021年1月2日土曜日

【歴史本】天を相手にする

 今回の書評は、書評といっても良いのかわかりませんが、とにかく、宮崎市定の評伝「天を相手にする」(著者:井上文則)です。

結局のところ、私が古代史に向き合うようになったのは、宮崎市定の本を読んでいたことに尽きると思います。本書の作者・井上文則さんは、ローマ史がご専門ですし、こうして畑違いの方が詳細極まる分厚い評伝を書くあたり、宮崎市定の著作に魅了された人は非常に多いということだと思います。
宮崎市定の魅力は、著者が巻頭に5つにまとめていますが、その中の一つである「独創性」という部分が突出してしまうことがよくあります。宮崎の論語の研究というのは、その中でも最たるものでして、私は全体としてこれ以上に合理的で、清涼で爽快な読みはないと感じますが、その独創が、宮崎の圧倒的な漢文解釈の能力に依拠している点において、そこが弱点とならざるえない所があるのでしょう。
論語の研究者である加地伸行による論評が、その弱点を抉り出しているように思います。曰く、
「宮崎『論語』は、自分の独創的解釈をここに述べているだけであり、その独創的解釈なるものの大部分というのは、他者の学問的賛同や批判を経たものではない。そこに宮崎『論語』一人芝居の悲劇がある。同書は一部の素人筋が愛好しているとしても学会においては、ほとんど問題にされないのである(本書p362)」
私自身も、公的な学問とは全くの無縁そのもので勝手に古代史論考を進めている人間ですし、加地のこの指摘はグサリと刺さるものを感じますが、京大を引退して市井の人となった宮崎は、こうした指摘や空気をどう感じたのでしょうか? もちろん、本人の気持ちと言うのは、正確に他人が把握できる類のものではありません。しかし、それを評伝著者がそれをどう推測したか、その答えが本書の題名「天を相手にする」であり、それは宮崎が自分に言い聞かせていた言葉でもあります(本書p321)。
この言葉は、史記伍子胥列伝に由来する言葉で、表紙左側の漢文もよくみると伍子胥列伝の一部です。この伍子胥列伝というのは、史記の中でも出色の出来であり、伍子胥の執念の生き様を題材にした極上の文学というべきもので、司馬遷の最高傑作と言っても過言とは言えないでしょう。逆から言うと物語性が豊かにすぎる伍子胥列伝というのは、歴史の史料としては用心が必要ということでもあるのですが、単なる事跡の羅列に終わらない「生きた歴史」とは何か、を考える最高の題材であると思います。
「人多きは天に勝つ、天定りて亦能く人を破る (人衆者勝天、天定亦能破人)」
ー学問という多数決ではない、結局は論理の質なんだ! 
宮崎にとっては、仮説の優劣(論語ならあくまで漢文の読みの優劣)があるだけで、その他のことは周辺的、二次的、副次的なものと考えていたのでしょう。伍子胥の生き様を背景にして、強い確信がもたらす幾分の怒気と執念を含んだ、そんな宮崎の声が聞こえてくる、素晴らしい表題だと思います。

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