◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
———-以下反論
テンプレにおいて「百二十一里六十歩四尺二寸二分」を218,164.22尺と計算した根拠は、漢代における度量衡の関係
1里=300歩 1歩=6尺 1寸=0.1尺 1分=0.01尺
という前提の元、下のような積算の結果であろう。
百二十一里=36300歩
36300 x 6 =217,800尺
六十歩 = 360尺
四尺 = 4尺
二寸 = 0.2尺
二分 = 0.02尺
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合計 218,166.22尺
以降、テンプレではこの218,166.22尺を基準にして、色々と机上の計算を行なっているわけであるが、これらの計算において、漢代の度量衡が整備される前に、始皇帝26年の始皇帝26年の度量衡の改正、つまり度量衡の改正により一歩の長さが6尺と規定されたことがあったことを勘案する必要がある。古周尺から割戻して計算する際に、その事情を勘案せずに割り戻すことは無意味である。
禮記王制が編まれたの前漢代において、218,166.22尺里(50.4km)が、「古者百里」に相当すると考えられたということが分かったとしても、そこから単純に割り戻して、周代の一尺を計算することはできない。始皇帝26年の度量衡の改正、つまり一歩が度量衡の改正により一歩の長さが6尺と規定されたこと、換言すれば、それ以前の一歩の長さは6尺ではなかったこと、加えて周代の里と歩の換算方法を判明させない限り、単純計算は許されないのである。
テンプレの計算によれば、今周尺の一歩は、机上の計算により(今周尺=秦漢尺9寸)としているが、これは王制の六尺四寸を間違いとして、一歩の長さ(138cm)を六尺六寸の数字で割ったものであるが、この場合、始皇帝26年の改正では、一歩の長さが変わらず、同じ一歩の長さについて、六尺六寸からに六尺へと定義しなおしたというおかしな想定にならざるを得ない。
実際のところ、戦国時代の一尺は当時の物差しの現物から、漢代と同じ23cm程度であることがわかっている。つまり、一尺の長さがほぼ一定である以上、始皇帝26年の改正で行われたことは、「歩」の実長の調整であったとするしかない。おそらく、この改正の意味は、一歩の長さをそれまでの身体尺(およそ150cm程度だったことだろう)から、法令として138cm(23cm x 6)に規定しなおしたということなのである。
実際のところ、説文解字に「咫」や「周尺」と言われるものの実態は、考古遺物から実証するのが捷径かつ正道であり、考古学的な知見によると、それは少なくとも東周代(=戦国時代)以来、一貫して一寸 2.3mm程度であり、そのことから考えると、説文解字にいう「咫」とは周小尺のことで、8寸で18.5cm、対して周大尺は10寸で23cmで、それらは東周・戦国時代以来、実はほとんど変わらないということなのである。(関野雄「中国古代の尺度について」参照)
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