2019年5月18日土曜日

【自著紹介】fb展開 第一部のまとめ

久々の更新はfbでの論考の展開をまとめたpdfです。
fbは仕様上古い記事を時系列順に読んでいくようになっていなさそうのなので、
まとめてみました。

◇一部前半 PDF
https://drive.google.com/file/d/1b1bCnAcbfNy_AGDhAxdLKt1eRYj0UIAD/view?usp=drivesdk

◇一部後半 PDF
https://drive.google.com/file/d/1m_BTXh_jvjCtEWwMUrnUzwSS2TLXnDeK/view?usp=drivesdk


2019年3月21日木曜日

【その他の本】日本人の起源

今回は、fbの方で紹介頂いた本、日本人の起源について書いてみます。

この方面の知識皆無でしたが、ゆっくり読み進めると、後半になるに従って、ちょっとワクワク感が増してきました。本書のクライマックスはやはり、縄文人から弥生人への転換をデータに基づきながら、時間的、空間的にも動的に示したことでしょうか。

 とんでもなくザックリ書いてしまうと、現在の中国江蘇省の人々とよく似た形質的特徴と、文化(抜歯について文化)をもつ人々が、九州北部に現れ、それが弥生中期から畿内方面へと展開していく、ということです。p213にあった血液タンパク質の遺伝データの近似性の距離を表した図が、象徴的で、弥生的遺伝形質をもつ人々がその中央、九州から畿内にあり、それを外側に囲むように東北と関西地方があり、さらにその外側に最北と最南端であるアイヌと沖縄があるようです。柳田國男の文化州圏論と相似していることがすぐピンとくると思います。 文化の州圏的な分布では、畿内が中央でしたが、遺伝情報では、震源地は九州北部ということになる点が異なっていますが、本質的には同じような事態が示されているように思います。

  せっかくですので、岡上私説と照らし合わせてみるならば、九州北部の弥生人にとって、   初めはその周囲は全て縄文文化を色濃くもつ狗奴国だったのでしょう。そして稲作文化を持つが故に人口の増大した九州北部の弥生人が進出を目指した方向は、南の九州南部では   なく、日本海ルート経由の畿内だった、ということだと思います。まずもって、私説と非常に適合的な内容で、内心ちょっと安心しました。

  結局、九州の方面から進出したという記紀の内容も踏まえると、高天原が宮崎でなく九州北部であったという解釈において、記紀の記載とこうした人類学的な事実が、ほぼ合致的であるという点をあとは世間様がどう評価していくのかということでしょう。記紀の資料的価値というものは、なかなか素直に認められることもないかと思いますが、どこかのタイミングで転換点を迎える日が来るのでしょう。

2019年2月4日月曜日

林檎社製品の中毒性に就て

前回、延口グループ(仮称)の温泉事業による顧客囲い込みの手法を暴いたが、よくよく考えると、より露骨とも言える囲い込みを実行している会社があることに思い至った。それはずばり世界的な電脳会社である林檎社(仮称)のことである。

そもそも私は、同社製品は敬遠し続けており、携帯電話やノートパソコンは、どちらかと言えば、ソニー製品でまとめるような傾向があった。それは仕事柄、同社製品を扱う厳しさを仄聞することもあり、あまり共感を持っていなかったことに加え、一方で「スタバ」なる美利堅発祥の珈琲館などでこれ見よがしに林檎社製品で仕事をしている風のサラリーマン風(だいたいピチピチの細身スーツと尖った革靴を着けている)の人が使っている様を半ば嫉妬心も抱きつつも、その押し付けがましいまでのスマート感に理由なき反抗を感じる側の人間であったからである。それが、ひょんなことからiPad Pro 12.9 Icnhを入手することになったことで、徐々に林檎社製品の中毒性のワナにはまっていく次第となったのである。

まず持って同社の狡猾なことは、iPad Proの最大の売りである「手書き」機能はiPad Pro本体を購入するだけでは、全く体験できないことにある。まずは大きな画面でネットやユーチューブなどを見れたら良いと思っているだけであったが、10万円程度する本体を手にして使い出してみると、そのシンプルなデザインの本体には、実は秘めたる性能が備わっていることにより、活用しないと勿体ないという気分にさせられてしまう。ペンシル自体も一万円を超える出費であり、文房具としての常識的にはあり得ない価格設定ながら、手書きで様々な草稿を書き、会社で打ち合わせに出てみたいという、好奇心に抵抗することはなかなかに難しい。こうした二律背反を乗り切って大枚を叩いて入手したiPad Proとペンシルを使ってみると、とくに「Good Notes」なる難しい英文の名称の課金アプリと併用することで、それが、手書きとほぼ同等の書き味を持ちつつ、拡大、縮小、切り取り、色変更などを素早く行うという手書き以上の便利さをもつ、究極に脳内の思考とシームレスなツールであることに気がついてしまうのである。すでに常識的なコスパ意識を乗り越えて入手した禁断の果実の味は、甘美という意外なかったのであった。


こうして禁断の園へと第一歩を踏み出した私が、次に目論んだのが、ノートパソコンからの完全なるiPadへの移行であった。無料のファイル管理アプリの「Documents」の使い心地がほぼノートパソコンに準じた出来になっているため、これは行けそうだと踏んだからであった。実際にやってみると、これは、予想通りというかそれ以上に存外に簡単で、ワイヤレスのキーボードを購入して、オフィスの課金版を導入するだけであった。ワイヤレスキーボードは、ロジクール社のものが、テンキー付きでiPad本体を立てけることもできるので便利である。これは実際は仕事は職業柄、自宅にて行う作業と言えばそもそも社内LAN環境がないためにWord,Excel、それにメールさえ使えればそれで事足りるということであったかもしれない。とにかく、マウスがない点がいかにも不便であるかと懸念されたが、それは長めの専用ペンシルがポインティングデバイスがわりも果たすことによって、不毛なる懸念に終わった。逆にマウスとキーボードの体制のパソコン入力より、ペンシルとキーボードの入力の方が、ペンを保持しつつも、テンキー程度は叩けるので、手を離す回数が減り、便利なぐらいである。ノートパソコンでテンキー付きとなると、クソ重く、起動も遅いので、いかにも仕事という気持ちを作らないと取りかかれないが、iPad環境にしてからというもの、その起動の速さから、特段のストレスを感じることなく仕事に取り掛かれるようになった。持ちろん、ワードエクセルもあるからには、通常の論文執筆などについても全く問題なく移行できたことは、いうまでもない。

こうして、ほぼノートとパソコンがiPad体制に一元化された私だが、次に目論む羽目になったのが、iPhoneとの連携である。これは、iPadのカメラは有能なものの、さすがに取り回しには、とくに外出時はあまりに大げさになってしまうので、iPhoneにその役目を担わせようということと、iPhoneからのテザリング機能で、外出先でもサッとワードエクセルを使ってメール確認がしたいということからであった。これについても、一番小さいiPhoneであるSEを購入することで、あっけなく実現した。一番大きな画面のiPadと小さな画面のSEは相性抜群で、今ではスタバならずとも、電波さえ届くところであれば、いとも簡単に快適な電脳環境が実現するようになった。とくにiPadからSEのテザリングを起動できる機能や、メモ・カレンダーの共有は、導入というほどもなく、もとから付いている機能といっていいほどで、無意識のうちに実現してしまっている自然さである。

こうして、気がつけば完全に林檎社の製品なしには、論考も仕事も進まないほどの中毒症状が進行することになってしまっていた。ふと我に帰れば、林檎社の新型iPadのレビューhpを開いているほどだ。おそらくこれまでの成功体験に味をしめ、無意識的にこの電脳環境をより快適にするべく情報収集しているのだろう。

以上、世界最強の囲い込みに成功しているであろう、林檎社による中毒症状についての一例を報告する。 写真は、患者の現在の病状を端的に示している。



2019年1月30日水曜日

延羽の湯の悪魔性に就て

  今日は、羽曳野市にある延羽の湯本店が如何にして小市民の満足感を充足させつつ、消費を促進し、或いは浪費を誘っているかの実態を紹介し、経営主体であるの延口グループ(仮称)のやり口を白日の下に明らかにしたいと思います。

  まず、第一に指摘しないといけない点は、それが天然温泉であるとこと謳っている点だ。もちろん、天然温泉であることは、大いに魅力ではあるが、それを殊更に宣伝されてしまっては、これでは、アクセスもそう悪くはないことだし、温泉好きは一度は行かざるを得ない。その次に注意するべきは、入館時には岩盤風呂(薬石サウナ)を一緒に入るかどうか、決めなければならず、金額も千五百円程度なので、取り敢えず岩盤風呂も一緒に払っrておくか、と思わせる点だ。狡猾なのは、現金の支払いはあくまで一番最後で、入館時には、バーコード付きのパスのようなものがついたバンドを貰うだけという点だ。館内の消費はこれ以後、このバーコードを読ますだけでOKということだ。これでは、購入時の負担感がなく、気持ちよくいろいろ使わざるを得ない。

 さらに狡猾なのが、岩盤風呂を申し込むと館内の着替え(浴衣)が一回は無償で取り返ててもらえること。これによって、「入浴ー着替えー岩盤浴ー着替えー食事」 という一連のコンボが気持ちよく行えてしまう。また、館内には、岩盤浴上がりには、冷えたトマトやキュウリなど、健康に気を使いつつ美味しく水分を摂る方法が用意されている。これも汗をひとしきり流して、喉が渇いている状態にある以上、目に入ったら頼まざるを得ない。極めて狡猾だ。

  また、入浴や岩盤浴が終われば、無料で漫画喫茶のようにかなりの種類の漫画が読み放題だ。こうなると、上述の「入浴ー着替えー岩盤浴ー着替えー食事」のコンボの合間に漫画を読んだりすることで、滞在時間はどうしても長くなり、その分各種消費も増えざるを得ない。特に、風呂上がり、サウナ上がりのお食事どころのビールセットの破壊力は強烈で、千円程度で生ビール、枝豆、唐揚げの3品が頼めてしまう。これでは、風呂上がり、サウナ上がりにこれを頼むなというのは、あまりに酷である。他にも普通に定食も千円程度で十分ボリュームもあり、味の方も「かごの屋」と同程度という感触というのは、殆ど反則ギリギリではないだろうか。

  また何を思ったか、散髪屋まで館内にあり、千円程度でカットできてしまう。当然、温泉で散髪しようなどという物好きは少ないので、割合に空いており、待ち時間もほとんどなく、散髪までできてしまう。これでは、一、二ヶ月に一回は来ることが決まったようのなものではないか。

  そして、もっとも狡猾極まりない点は、以上ような時間消費型サービスで、行けば半日は潰れるの割に、お風呂も入って、汗をかいて、散髪をして、ビールを飲んで、定食を食って、だいたい五千円程度で収まってしまうということだ。これでは、満足して家路につかざるを得ない。しかも、お風呂も食事も終わっているので、家に帰ると完全に寝るだけですむラクさ加減だ。

  以上、延口グループ(仮称)が如何に消費者を満足させて、リピーターを囲い込んでいるかを暴露した。皆さんの参考になれば幸いだ。

【歴史本】史記列伝抄

前回、「中国古代史の最前線」にて、長文をグダグダと書き殴りましたが、今回は、私好みの文献史学とはどんなものかということを体現するような一冊をご紹介しします。やっぱりそれは、宮崎市定なんですけど。

新書でもなくハードカバーで三千六百円もしますが、全集にも入っていないので、手元に置いておく価値は十分あるかと思います。宮崎市定の文章はリズムカルに読めますので、何処と言わず全ておすすめなのですが、前回の歴史観に関連する文章を念頭に特に「史記李斯列伝を読む」に目を通して見ると面白いと思います。氏のやり口というのは、司馬遷の手の内のカードを裏読みしつつ、そこから史料的事実を大胆に引き出してくる方法が、かなりの岡上好みの歴史の読み方なのです。これは、史料に対して、冷めた目を持ちつつも愛着を持って読み進めなければ出来ない芸当だと思うのです。

読み物として、普通に面白いのですが、大げさにいうなら、単なる典型的な悪役、完全なる悪を担わされた「趙高」という史的存在へのレクイエムにもなっているのではと思う次第です。


2019年1月3日木曜日

【歴史本】中国古代史研究の最前線

  今回の読書案内の更新は、佐藤信弥の「中国古代史の最前線」にします。

  本書は、その名のとおり、考古学的なもの出土文献・資料から、極めて具体的に中国古代史の復元を試みています。 そこから導き個々の事実は非常に興味深く、食い入るように読ませて頂きました、が。。。 実は、個人的な読書体験としては、ある種の違和感を感じざるを得ませんでした。

  その点とは、本書の折々に触れられており、その「伏流」をなす、歴史に対する態度、哲学についての言及についてです。少し長くなりますが、今回はその違和感の内容を少し詳しく説明することにします。以下、論文調でいきます。

  極めて大雑把に言って、学術的な考古学的な発掘がなかった時代、基本的には、前の時代から伝わった文献が、中国の歴史のほとんどであったと言って良いだろう。そしてその文献同士には相矛盾する点があり、それを比較し、検討し、より事実に近づこうとする学問的立場が、清朝から始まった「考証学」と呼ばれる立場である。「疑古派」と呼ばれるように彼らの学問的な立場は、文献に対して少し冷めた距離感を持っている。具体的に言えば、周代以前の歴史については、あまりに古く伝世された資料も少ないので、比較検討の余地がなく、信じるに足らない、という立場である。彼からすれば、書いてあるのものをそのまま歴史的な事実と認めることは、極めて不用意な態度であるといえる。そのような歴史に対する態度を「信古派」と呼ぶ。

  疑古派と信古派の違いを象徴的に表すのには、史記における始皇帝崩御に関わる宰相・李斯と宦官・趙高の密談が良いと私は考える。史記・李斯列伝では、宦官・趙高が、煮え切らない態度をとる宰相・李斯を説得し、始皇帝の偽勅を捏造し、胡亥を後継とするストーリーが、臨場感を持って描かれてる。偽勅にて、始皇帝の長子扶蘇を廃して、胡亥を皇帝に立てた李斯と趙高は、最期的には破滅を迎えている。ただ、よくよく考えてみると、こうした密談の内容はその性質として、それが秘密であるからして、史記のような歴史書にこうも如実に第三者にわかるはずがない。こうして、直ぐには文献を信じないのが「疑古派」の立場であり、それに対し、伝世文献に書いてあることを、兎に角は一旦そのまま信用するのが「信古派」の立場である。

 それらの伝統的な歴史的な立場に対して、近代になって次々と発掘・発見された考古学的な発掘物や出土文献を以って、伝世文献を裏付けしていこうという立場が、「釈古派」と呼ばれる。本書では、基本的には伝世文献と出土文献を突合し、歴史的な事実を復元してしていこうという立場である二重証拠法による「釈古派」こそが「科学的な思考」に近いとし、さらには、秦の始皇帝陵の兵馬俑や殷墟さらには夏王朝の王都と、疑古派がその存在を疑ったものが、近代において次々と発掘されるに及んで、最終手には「釈古派」が勝利したとする。

  しかし、中国の古代史に関して言えば、基本的には発掘された遺物が次々と文献的な事実を証明していく結果となっている現状は、立場を変えてみれば、それは「疑古派」に対する「信古派」の勝利とも言えなくもない。そこで、本書の作者は、その「釈古派」の立場の中にすら、古い「信古派」の文献史学の残骸を見、より純粋に考古学的な立場からの歴史の復元をするより先鋭的な学問的な立ち位置にこそ、より共感的であるようであり、「釈古派」のその勝利の奢りの隙間に、「信古派」復活のような時代錯誤が紛れてこないかという警鐘を鳴らしている。そして、その戒めとして、本書の最後には、中国古代思想史の研究者、西山尚志の意見を引用することで締めくくられている。私もある意味でそれが非常に重要であると考えるので、少し長いが、その全文を引用しよう。

****引用*****
  関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならないということで、西山はこうした態度を反証可能性を拒否・放棄し、反証によって真理に近付いていこうとするアプローチを閉ざすものであると批判する。そして近代において二重証拠法は、多くの研究者がさほど重視していなかった出土文献の史料としての有用性を喧伝するという効果はあったが、一方で「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」「疑いすぎてはいけない」と、伝世文献に対する文献批判、史料批判を封じる役割を担ったとし、反証不可能な命題をもって、反証を封じることがどのような結果をもたらしたかと、戦前の日本の歴史学の状況を想起させつつ問い掛ける。

  実は、私が感じた違和感とは、まさにこの本書の結論というべき部分に代表されている。つまり、本書の作者にとって、「歴史」というのは、科学的な手法に則って証明された事実の集合体に過ぎないのでは、ということだ。私に言わせてもらえば、考古学的な遺物が示す考古学的な事実にせよ、複数文献間で証明された文献学的な事実にせよ、それを寄せ集めただけでは、まったくもって「歴史」と称するには、不足しているのである。それは恰も、いくら細胞の機能について分析し、事実を収集してもその集合である「人間」の全てが分かるようにならないのとまったく同じであり、私にとって個々の事実の寄せ集めには基本的にさほど大きな興味はないのである。

  過去存在について、確実に分かったものだけを事実と認め、その集積にしか歴史を認めない、というのは一見非常に慎重な態度であるのだが、逆から言えば、それはとるに足らないような退屈な事実、忘却の彼方に押しやられた事実までをも背景に持つ「歴史」という豊かすぎる内実を持つものを対象にするには、あまりに偏狭で、不自由な態度なのである。実際、我々の平々凡々で、何の記録にも残らないような日常が集積したものが歴史である。例えば、2年前の2016年四月某日の私、岡上佑の食べた朝食の内容、4年前の通勤において私が目にした雑誌の表題とそれが私のその年の投票行動に与えた影響、さらには、私が通った幼稚園の先生の口元にホクロがあったかどうか、こうしたものは歴史的事実いうにはあまりに些細で平凡すぎる内容であり、それ故に記録には残りにくいので、それを証明することは困難だろう。しかし、それらが現実問題として証明されないからといって、それらを「歴史」から排除してしまうべきではないのである。

 少し哲学的な言い方をすれば、基本的に我々が背負う過去とは、その証明可能性とは、無関係には存在しているのである。それが証明できないのは、ひとえに我々人間の無力さ、無能さの所以であって、我々の認識能力の低さから、ある歴史的な事象を証明できないからとって、それを存在しないものとして、学問の場から排除してしまうことは、大きな間違いなのである。卑近な例えをすると、犯人の似顔絵を想像するのが良いだろう。確かに事実として確実に分かったものだけを書こうとするのは、非常に堅実な方法だと言えるが、人の記憶など、そもそも曖昧なところがあり、不可避的にその本質としてそれが存在しているである。わからないから書かない、書けないという態度で「のっぺらぼう」のまま放置するなど、そもそもが「(不完全な認識しか持たない)人間が似顔絵を書く」という行為そのものと矛盾している。少なくともそんなものは、犯人探しには、まったく役にたたない。我々が知りたいは、犯人の表情であったり、印象であったりで、そんな不確実な情報、知識でも、それが存外、犯人特定の役には立ったりするのである。勿論、誤認逮捕は避けないといけないが、ここで言いたいいのは、いかに確実といっても、白紙の似顔絵ほど、ナンセンスなものはないのである。

 少し話が過ぎたが、例の引用文に戻るならこうである。ここでは、「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という比較的穏当な命題について、「文献批判、史料批判を封じる役割を担い、戦前の歴史学を想起される」と問題提起されている。これは、率直に言って、全くもってとんでもない論理である。「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という命題が偽であるという主張は、「伝世文献の内容は必ず偽である(または真である)」ということと等価である。伝世文献を慎重に取り扱うべき、という主旨は100%同意であるが、間違った推論に基づいた考古資料のみが歴史であるというような態度からくる、干からびてパサパサの歴史など、まったくの願い下げである。先に挙げた「李斯と趙高の密談」を挙げるなら、事実の集合体としての歴史にはこうした物語じみたエピソードは残らないであろう。しかし、我々が手にしてきた「歴史」には、たしかにこのエピソードは存在するし、可能性としての内包の一つとして、このエピソードを歴史の内に留める勇気が必要なのではないか。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史などを例に出すまでもなく、歴史は物語性は切っても切り離せないものとして、古来から存在してきた。History のスペルの中には、Storyが隠れている。歴史から物語性を排除するなど、香ばしいカフェラテから、コーヒー成分を抜くような愚行であって、それでは残るのは水で薄めた牛乳が関の山なのである。私はこう言いたい。歴史にとって物語性とは、カフェラテのなかのコーヒー成分であって、その点こそ、大人の嗜好に相応わしい点なのである。

  先に挙げた引用文には、「関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならない」とあり、その後の文でこの考え方に批判を加えているが、この命題を批判したいなら非常に簡単であり、これはこの命題の根底にある「文献的事実は『真』か『偽』が何れかである」という態度がおかしいのであって、先に挙げた通り、証拠によって証明されていない事実とは、単に現時点の人間の有限の認識能力では、単なる真偽不明の命題というだけであり、決して否定的な証拠が出ていないからといって排中律を持って自動的にそれが『真』であるとは論理的には言えないのである。

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以上、ちょっと硬くなりすぎましたし、こうした批判はちょっと本書に対しては的外れとも思えますが、実はこれ、たぶんお気づきと思いますが、私の日本古代史に関する考えをこの場を借りて表明させて頂いたということです。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史に見る歴史を日本の記紀にも堂々と見ていいという私の主張でした。

という訳で誰も見てないブログですが、長文失礼しました