「 魏書倭人伝の探究」をカクヨム版にリライトしました!
https://kakuyomu.jp/works/16816927859134809507
年明けからは、「三国志〜終焉の序曲〜」と合わせて、ダブル進行になる予定です♪
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今回は、 渡邉義浩の「魏志倭人伝の謎を解く」です。
実は本書についての論評は二回目で、実は #辛口書評シリーズ として、すでに一回取り上げているのです。その時も魏志読解自体の甘さを批判したのですが、では二回目はどうかというと、今度もやはり批判です。有名な先生ですし、気に障るかたも少なからずいるかと思いますが、よく世に出回る常識的な仮説だからこそ、こうして論難の矛先に上がる物だと割り切って頂ければ幸甚です、渡邉先生の書作が好きな人は読まない方がいいでしょう。(間違って読んでも怒らないでね)。
前置きはさて置き、本著に対して大きく失望したことは、それが史料批判、魏志の成り立ち、陳寿の執筆の意図を復元しようとするにも関わらず、それが全くの表層的な面に止まり、肝心のところを見失っているからである。例えば、本書の説くところによると、司馬氏を称揚したい政治的動機を持つ陳寿は、邪馬臺国の所在を敵国、孫呉の後ろに位置付けたという。これはちょっと変な話である。なぜなら同書にも説明がされているように、陳寿はなんらかの既存史料を参照したものと思われるが、帯方郡から万二千里の彼方というのは、その既存史料である魏略に書かれているものをそのまま転載したに過ぎず、倭国への距離と陳寿自身の政治的志向というものは、ほとんど問題にならないからだ。史料批判を掲げるならば、万二千里の世界観を構築したのは、魏略の作者である魚豢であって陳寿ではない。史料批判を厳密に行うのならば、万二千里の世界観と陳寿の政治的立場というものは、関連づける積極的根拠はなにもない、つまり陳寿の政治的立場から邪馬臺国の所在を敵国、孫呉の後ろに位置付けたというのは単なる憶測に過ぎないということになる。
さらに付け足しておくならば、魏志に表れているのは、帯方郡を起点とした万二千里の世界観であるが、本書で語られるのは、尚書禹貢編に基づく長安や洛陽を中心にした方一万里の天下の世界観である。方一万里よりも二千里多い万二千里の世界というのは淮南子に出現しており、そこではまさに東方の極みの比喩である。陳寿の種本である魚豢の魏略は、ピッタリと数的に合致するこの万二千里の世界観を背景にしているのであって、わざわざ数字も起点も合致しない方一万里の九服の世界観だけを紹介するのは非常にミスリーディングである。渡邉ほどの専門家が淮南子に万二千里の記載があることを知らないはずがないから、これは魏志や魏略と淮南子が一致することを知りつつ敢えて無視したということであろう。
本書がこうした偏った構成になっているのは、どうも渡邉本人が畿内説支持であり、「方一万里の世界観」で九州到着後、不彌国以降の残り千三百里を日程で計算したとして、帳尻を合わせんとする下心からでたようである。本書によると、司馬懿の軍行が一日四十里だったことを引き合いに出し、不彌国から邪馬台国は千三百里を水陸都合二ヶ月にて渡ったと考え、「陳寿は邪馬台国に向かう使者の道程を「九州」を開いた禹の苦労に準えた(p132)」といっている。いかに苦し紛れとはいえ、どうもご都合主義もここまでくると、申し訳ないが噴飯物としか評しようがない。常識的に考えて、千三百里を二ヶ月かけたというのなら、総旅程の万二千里では片道で一年以上もの旅程になってしまうではないか。それに万二千里のうち、不彌国以降の残り千三百里のみが禹の苦労に比されるというのは、アンバランス極まりない。同じ万二千里の倭国への旅程でも、不彌国到着までの一万七百里は楽勝で、禹の苦労に比すべきものは特段なかったと、陳寿は暗に主張していたとでも言いたいのだろうか。
本書の旅程記事への解釈が、謎を解くどころかチンプンカンプンの破綻に堕してしまっているのは、万二千里の世界観の大元である、魏略の著者である魚豢についての外的な史料批判がなおざりに過ぎるからである。本書にはそもそも魏略の成立年代についての論考はないようだが、陳寿の参照した種本として魏略に万二千里の表記があったことは紹介されている。ただ本書では、本文を顧みない勝手読みを犯してしまっている。それは、すなわち、現実の魏略逸文には邪馬台国への旅程の記述は存在しないもかかわらず、「魏略には邪馬台国そのものを記した部分はある(p129)」として、続いて「帯方より女王国に至るまで一万二千里である」という一文を引用しているのである。ここからわかることは、渡邉は、「女王国=邪馬台国」であるとなぜか同一視して、現実の魏略にはない邪馬台国への記載を、さもあったように勘違いしているのである。
魚豢の魏略を一つの文献として読めば、そこにあるのは、帯方から女王国が万二千里であったという事実のみであり、それは淮南子の世界観を転用したものである。渡邉は万二千の解釈を行うにも、陳寿と魚豢を無分別に行うべきではなかった。実際の魏略にはない邪馬台国という概念を魏略の万二千里の解釈に密輸入したことが、渡邉の旅程記事解釈が破綻した理由であろう。本書では、内的な史料批判にて魏志を読解することを主張するが、史料批判による新解釈を旗印に掲げるのであれば、まずは魏略とその著者である魚豢に対する慎重で外的な史料批判がまず必要であった。その本書の実態を率直に書けば、外的な史料批判を捨て置き、陳寿の政治的立場を曲解した上で過剰なる憶測に基づいて、陳寿という人を、魏志を、それから倭人伝を読み誤った本、それが私の評価である。
久々に比べ読みをしようという気になったので、大好きな「史記」と「史記を語る」の二つを取り上げたい。著者はそれぞれ貝塚茂樹と宮崎市定で、中国史に興味がある人なら何がしら必ず目にしたことがあるだろうというほどのビックネームである。
こうして二冊を読み比べることで、貝塚と宮崎、二人の司馬遷像の微妙な視差をみるけることができる。貝塚の方の史記は、私が考えるに、比較的に常識的で一般に流布している?司馬遷像である。特に「史記」は、その一章と二章を使って、「任安に報じる書」を書いた司馬遷を生々しいまでに復元している。宮刑という恥辱に耐え忍んで、己の著作に全てを賭けた司馬遷像として、初読した時には私も随分と衝撃を受けたのを覚えている。刑死という人生の冬に迫る友人に対して、浮世での栄達や親孝行を全て諦めざるを得なかった(社会的)死者の独白、いわば書写機械として生きた司馬遷の最後の情念が見事に再現されている。貝塚史記の精華はまさしくこの現実の司馬遷の肉声の復元を行なった点にあるように思う。司馬遷の史記に対する思いは、列伝の巻頭に置かれる「伯夷列伝」に最もよく現れているとされる。「天道は是か非か」すなわち、善き行いをおこなった人物が必ずしも善く人生を全うできないのは何故か。天道が実際にはほとんど姿を見せない時、私はどうすれば良いのか。自らの不遇で皮肉な人生に対する司馬遷なりの答えが伯夷列伝なのである。
そして、この「天道是非」についての司馬遷の答えに最終的に見事に焦点を定めたものが、宮崎史記だと言えるだろう。宮崎史記の特徴は、この岩波文庫一冊を読めば、見事に宮崎の史記観、司馬遷観が表現されていることに尽きる。もちろん、これは宮崎市定という色眼鏡をかけてみた史記観であり司馬遷観であることは言を俟たないが、司馬遷という歴史上のとある人物と真っ向から対峙するとき、主観抜きの客観など存在し得ないという点を考えれば、深く中国文献に沈溺した、歴史学者としての宮崎の主観を追体験できるという意味で、これまた得難い読書体験ができることは間違い無いだろう。実際、私の司馬遷についての像は、宮崎史記を抜いては何も語ることはできないだろう。宮崎の着想の素晴らしさは、伯夷列伝にある孔子の言う「仁」を「自由」と読み替えて見せたことだ。一般には「仁」と「自由」とは全く異なった概念であると考えられるし、それを同一線上に語ろうというアイデアも相当トッピに感じることだろう。しかし、宮崎は敢えてその両者を本質において同じものとみなし、それによって司馬遷という人をより深く掘り下げることに成功しているように思う。自由人としての矜持を伯夷列伝に、史記全体に、何より司馬遷本人に見出した宮崎の着想が気になる方は、是非一読をお勧めしたい。
というか、今回は併せ読みを薦めるために書いているのだし(笑)、貝塚史記、宮崎史記を是非手に取って見ていただきたい。私自身は、既に社会人になってからこの両書に出会ったが、おそらくタイミングがもう少しはやければ、おそらく今のようにサラリーマンはしてなかっただろうな、というほど素晴らしい読書体験になることを保証する二冊である。
「断絶としての日本古代史」
「接続としての日本古代史」
「魏書倭人伝の探究」
古代史に関する論考を突き詰めて、ついに四冊揃えることができました!
本業の合間で、コツコツと積み上げた論考が形になりました。
www.amazon.co.jp/dp/B093YBBHP2
アマゾンのキンドル本にて「魏書倭人伝の探究」を発売しました。まぁ、売れるとも思いませんが、兎に角、こうして世に送り出すことができて幸せです製本版は、暫くしてから2200円にて、例のウェブショップにて発売いたします。
今回は「魏志倭人伝」の史料批判を重点を置いて、そこから邪馬台国の所在論考に迫ります。内容的には難しい西晋の歴史に大きく踏み込んで、陳寿が生きた西晋の政治史を復元する所が、見どころになるのではないでしょうか。
前作にて既に頭は空っぽと言いましたが、意外や意外、絞れば出てくるもんですね。毎回言っているようにも思いますが、今回は特に読み物(物語)としてもかなり面白いんじゃないでしょうか?
是非ご一読をお願いします!
前回の反論ですが、どうもまだFAQの推論を誤りを完全には指摘出来ていない気がするので、FAQがどこで間違ったか、一歩一歩踏み外した地点を確認していきたいとおもいます
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。 秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
—————————-以下反論
■『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩(略)」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
→王制は、「古くは、周尺で八尺を一歩、今は周尺尺六尺四寸で一歩」というのであるから、実は、ここでは二通りの事態が考えらる。一つはテンプレの言う通り、周尺自体に古今もしくは大小の二種類があるという考え方で、その場合のこの文の解釈としては、「歩」自体の長さは一定となる(この考えをAとする)。そして、もう一つの考え方は、「周尺」自体の長さは一定で、「歩」の長さが、二種類があるのではという考え方(Bとする)だ。
またこの文でいう「今」というのも実は厄介な問題で、この執筆時点の時制を王制が完成した前漢として問題はないのか、という点も見逃せない。テンプレでは、これは執筆時点の時制と考えているようで、歩の長さは今周尺で考えて六尺六寸であると考えだ。
(今周尺 2.1 x 6.6 = 138 cm / 秦漢尺 2.3 x 6 = 138 cm)
■ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
→ここでもテンプレでは「當今」を前漢代と考えて、一里=300歩、一歩=6尺にて計算している。時制をどう考えるかの当否は別にして、一つの考え方として、とりあえず次を見ると、、、
■これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ,「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
→ここでテンプレでは、なぜか突然、今周尺について1.10009倍云々と断定する。古者周尺の百里(2,400尺)と1秦漢尺を比較すると約1.1の比率が出るのは分かるが、なぜその両者によって急に今周尺に関する情報が得られるか?これは、前段Aの考え方によって古者周尺が分かれば、自動的に今周尺もわかるということなのだろうか?、ただ、その場合でも計算して見てればわかるが、今周尺のほうが古者周尺より大きいため、今周尺=秦漢尺9寸という比率には全然ならない。
どうもここで調べてみると、どうもテンプレでは、この計算の段なって、急に上記(B)の考え方を採用して、周尺の長さを一定として、歩の長さを変更する考え方に依拠しているようだ。(どうも論証と実際の計算がアベコベで紛らわしくて困る)
分かりにくいところであるが、ここまでのことを纏めると、テンプレの王制の「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」の解釈は以下の通りになる。
「古くは、周尺(21cm)で八尺(168cm)を一歩、今は周尺、六尺六寸(138cm = 21 x 6.6)で一歩である」
ここまで整理すれば、前回私が指摘した話がはっきりわかると思う。つまり、21cmの周尺で六尺六寸ということは、一歩を138cmである考えたということであるから、これは、漢代の一歩と全く同じ実長になる。つまり、この考え方では始皇帝26年にての一歩を六尺と再定義したことを読み込みすることが不可能となるのである。敢えて無理に辻褄を合せようとすると、始皇帝26年の度量衡の統一にて、歩の実長ではなく、尺の実長を変えたと解釈することぐらいであろうが、これは考古学的な事実が許さないのである。
周代 一歩=六尺六寸 実長138cm(21cm x 6.6)
漢代 一歩=六尺 実長138cm(23cmx6)
これで、テンプレの試算が単なる机上の計算で全く意味のないことはかなり丁寧に説明できたと思う。
■この錯誤の原因は(以下略)
→この文の以下については、単に誤った前提に基づく推論に過ぎないので検討の価値はない。割愛しても良いだろう。
更に少し長くなるが、わざわざ3回に分けるほどでもないので、テンプレの間違いを指摘するだけではなく、この王制の記述を私なりにどう考えるのか追加で説明したい。
ヒントは、「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」という一文の時制である。実はここの文というは、王制は漢代の編纂ではあるものの、禮記自体、孔子の時代の書物とされているのであるから、時制を孔子の時代(以下東周と呼称)に置くのが正しい読みなのではないだろうか。どうも王制の本文というのは、「周尺」の解説がわざとらしく感じられ、これは原文に漢代の編纂時に語句の挿入があったのではないだろうか。つまりどういうことかというと、
「古者以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩」 という本文は、実際には
「古者以八尺為歩、今以六尺四寸為歩」 と本来的に東周時代に書かれていたということである。
実際、わかっているところで遅くとも東周後期の戦国時代あたりから、一寸の長さは漢代までほぼ一定であるから、それを代入すると、「古者以八尺為歩(147 cm =18.5cm x 8)、今以六尺四寸為歩(147cm = 23cmx6.4) 」となる。これは、孔子の時代から見て、その昔(西周時代)では、所謂、周小尺が主に使われていたが故に一歩は八尺であり、それが東周に至って周大尺が広く通用するようになり、一歩が六尺四寸と考えられるようになった消息を表しているのだろう。147cmというのは身体尺の「一歩の長さ」として平均的なところだとも思う。
こうして考えると、始皇帝26年の「歩」に関する度量衡改正の意味もはっきりしてくる。つまりその時には、一歩の実長は、従来の自然発生した身体尺としての六尺四寸(147cm = 23cmx6.4)から、六尺(138cm= 23cm x 6)へと短くされたということである。こうすると綺麗に全て説明がつくというわけである。
では、なぜ始皇帝26年に「歩」の実長を短くしたのかといえば、それは勿論の秦の水徳を表す六に合わせたのであるが、より現実的には、一歩を短くすることで、同じ大きさの田畑でも計算上大きな面積に計算できるので、その分税収が増える徴税強化という実利に繋がる点が隠された意図としてあったのだろう。
最後に「古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」であるが、これは、テンプレの計算通り、時制を前漢代において、218,164.22尺と考えても別に良いだろう。ただし、これは前漢当時に観念的に考えられていた周代の一里の長さを表すだけであるし、ここから逆算にて歩や尺という単位を推算してもほとんど意味がない。まずは周代の一里の実長を実証し、王制のこの一文の正誤を確認することが先だろう。
以上、予想以上の分量になった。流石にこの件はこれで十分だろうと思う。
私の仮説自体に興味のある方は、思う存分「八寸と八咫」という小論を書いているので、調べてみて欲しい。
◆FAQ 65-2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
———-以下反論
テンプレにおいて「百二十一里六十歩四尺二寸二分」を218,164.22尺と計算した根拠は、漢代における度量衡の関係
1里=300歩 1歩=6尺 1寸=0.1尺 1分=0.01尺
という前提の元、下のような積算の結果であろう。
百二十一里=36300歩
36300 x 6 =217,800尺
六十歩 = 360尺
四尺 = 4尺
二寸 = 0.2尺
二分 = 0.02尺
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計 218,166.22尺
以降、テンプレではこの218,166.22尺を基準にして、色々と机上の計算を行なっているわけであるが、これらの計算において、漢代の度量衡が整備される前に、始皇帝26年の始皇帝26年の度量衡の改正、つまり度量衡の改正により一歩の長さが6尺と規定されたことがあったことを勘案する必要がある。古周尺から割戻して計算する際に、その事情を勘案せずに割り戻すことは無意味である。
禮記王制が編まれたの前漢代において、218,166.22尺里(50.4km)が、「古者百里」に相当すると考えられたということが分かったとしても、そこから単純に割り戻して、周代の一尺を計算することはできない。始皇帝26年の度量衡の改正、つまり一歩が度量衡の改正により一歩の長さが6尺と規定されたこと、換言すれば、それ以前の一歩の長さは6尺ではなかったこと、加えて周代の里と歩の換算方法を判明させない限り、単純計算は許されないのである。
テンプレの計算によれば、今周尺の一歩は、机上の計算により(今周尺=秦漢尺9寸)としているが、これは王制の六尺四寸を間違いとして、一歩の長さ(138cm)を六尺六寸の数字で割ったものであるが、この場合、始皇帝26年の改正では、一歩の長さが変わらず、同じ一歩の長さについて、六尺六寸からに六尺へと定義しなおしたというおかしな想定にならざるを得ない。
実際のところ、戦国時代の一尺は当時の物差しの現物から、漢代と同じ23cm程度であることがわかっている。つまり、一尺の長さがほぼ一定である以上、始皇帝26年の改正で行われたことは、「歩」の実長の調整であったとするしかない。おそらく、この改正の意味は、一歩の長さをそれまでの身体尺(およそ150cm程度だったことだろう)から、法令として138cm(23cm x 6)に規定しなおしたということなのである。
実際のところ、説文解字に「咫」や「周尺」と言われるものの実態は、考古遺物から実証するのが捷径かつ正道であり、考古学的な知見によると、それは少なくとも東周代(=戦国時代)以来、一貫して一寸 2.3mm程度であり、そのことから考えると、説文解字にいう「咫」とは周小尺のことで、8寸で18.5cm、対して周大尺は10寸で23cmで、それらは東周・戦国時代以来、実はほとんど変わらないということなのである。(関野雄「中国古代の尺度について」参照)
*2021年1月現在のテンプレに反論。
*ログに流れるのも徒労感あるので、まずはブログにアップ。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
—————以下反論
■「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
→特殊ではなく、以と已は、普通に通用している。内藤湖南・藤堂明保等も已で解釈。三国志での通用の用例も多数ある。
■ 「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
→意味不明。已の用法を会話文の発話時点?に限る必要はない。ここでは地の文で用いられており、正始8年の時点で、張政が到着した時に卑弥呼は已に死んでいた。
■「 已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
→時系列云々が意味不明。 なお、已葬は、「動詞+目的語」の句で、「葬が已めば」と読む。 (上記読みは同じく藤堂明保「倭国伝」での読み)
■ 「田豐以諫見誅」(魏志荀彧)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
→例示は全て「以」が導く句を省いても、そのまま主語術語の関係が維持されている。すなわち「田豐見誅」「騭免」「彪罷」となり意味が通じる(田豐は誅殺され、歩騭と楊彪は、罷免されている)。対して、「卑弥呼以死大作冢」は、以を前置詞として「以」が導く句を省くと、「卑弥呼大作冢」となり主述の関係がおかしくなり、(卑弥呼が冢を作ったわけでは、当然ないので)意味が通じない。つまり、文の構成が、3つの例示のある「(主格)以(原因)→(結果)」と読みと、「卑弥呼以死大作冢」とは、以の文字の使われ方・文の構造が違うということである。
■ 繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
→「繰り上げて」という意味が不明。記載の指示がないので張政の帰国に伴う壹與の初遣使も正始8年条の話と考える以外は勝手読みの類となる。
■ 倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、
→「倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っている」ということはない。全て正始8年条の話。
■張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い
→「嘉平限断論」は晋書作成の際の議論で基本的に三国志とは無関係である。三国志には当然ながら嘉平年間以降の記事もある。本紀としても元帝曹奐まで記されている(列伝中の記事としても太康5年の記事(孫晧の死)まである。)東夷伝においても、陳寿は当然ながら正始8年以降の記事を書くことはできたが、実際にはそうではない以上、正始8年条で始まる記事は、正始8年の出来事と捉えるのが、文章によった正しい読み方である。
今回の書評は、書評といっても良いのかわかりませんが、とにかく、宮崎市定の評伝「天を相手にする」(著者:井上文則)です。