2019年1月3日木曜日

【歴史本】中国古代史研究の最前線

  今回の読書案内の更新は、佐藤信弥の「中国古代史の最前線」にします。

  本書は、その名のとおり、考古学的なもの出土文献・資料から、極めて具体的に中国古代史の復元を試みています。 そこから導き個々の事実は非常に興味深く、食い入るように読ませて頂きました、が。。。 実は、個人的な読書体験としては、ある種の違和感を感じざるを得ませんでした。

  その点とは、本書の折々に触れられており、その「伏流」をなす、歴史に対する態度、哲学についての言及についてです。少し長くなりますが、今回はその違和感の内容を少し詳しく説明することにします。以下、論文調でいきます。

  極めて大雑把に言って、学術的な考古学的な発掘がなかった時代、基本的には、前の時代から伝わった文献が、中国の歴史のほとんどであったと言って良いだろう。そしてその文献同士には相矛盾する点があり、それを比較し、検討し、より事実に近づこうとする学問的立場が、清朝から始まった「考証学」と呼ばれる立場である。「疑古派」と呼ばれるように彼らの学問的な立場は、文献に対して少し冷めた距離感を持っている。具体的に言えば、周代以前の歴史については、あまりに古く伝世された資料も少ないので、比較検討の余地がなく、信じるに足らない、という立場である。彼からすれば、書いてあるのものをそのまま歴史的な事実と認めることは、極めて不用意な態度であるといえる。そのような歴史に対する態度を「信古派」と呼ぶ。

  疑古派と信古派の違いを象徴的に表すのには、史記における始皇帝崩御に関わる宰相・李斯と宦官・趙高の密談が良いと私は考える。史記・李斯列伝では、宦官・趙高が、煮え切らない態度をとる宰相・李斯を説得し、始皇帝の偽勅を捏造し、胡亥を後継とするストーリーが、臨場感を持って描かれてる。偽勅にて、始皇帝の長子扶蘇を廃して、胡亥を皇帝に立てた李斯と趙高は、最期的には破滅を迎えている。ただ、よくよく考えてみると、こうした密談の内容はその性質として、それが秘密であるからして、史記のような歴史書にこうも如実に第三者にわかるはずがない。こうして、直ぐには文献を信じないのが「疑古派」の立場であり、それに対し、伝世文献に書いてあることを、兎に角は一旦そのまま信用するのが「信古派」の立場である。

 それらの伝統的な歴史的な立場に対して、近代になって次々と発掘・発見された考古学的な発掘物や出土文献を以って、伝世文献を裏付けしていこうという立場が、「釈古派」と呼ばれる。本書では、基本的には伝世文献と出土文献を突合し、歴史的な事実を復元してしていこうという立場である二重証拠法による「釈古派」こそが「科学的な思考」に近いとし、さらには、秦の始皇帝陵の兵馬俑や殷墟さらには夏王朝の王都と、疑古派がその存在を疑ったものが、近代において次々と発掘されるに及んで、最終手には「釈古派」が勝利したとする。

  しかし、中国の古代史に関して言えば、基本的には発掘された遺物が次々と文献的な事実を証明していく結果となっている現状は、立場を変えてみれば、それは「疑古派」に対する「信古派」の勝利とも言えなくもない。そこで、本書の作者は、その「釈古派」の立場の中にすら、古い「信古派」の文献史学の残骸を見、より純粋に考古学的な立場からの歴史の復元をするより先鋭的な学問的な立ち位置にこそ、より共感的であるようであり、「釈古派」のその勝利の奢りの隙間に、「信古派」復活のような時代錯誤が紛れてこないかという警鐘を鳴らしている。そして、その戒めとして、本書の最後には、中国古代思想史の研究者、西山尚志の意見を引用することで締めくくられている。私もある意味でそれが非常に重要であると考えるので、少し長いが、その全文を引用しよう。

****引用*****
  関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならないということで、西山はこうした態度を反証可能性を拒否・放棄し、反証によって真理に近付いていこうとするアプローチを閉ざすものであると批判する。そして近代において二重証拠法は、多くの研究者がさほど重視していなかった出土文献の史料としての有用性を喧伝するという効果はあったが、一方で「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」「疑いすぎてはいけない」と、伝世文献に対する文献批判、史料批判を封じる役割を担ったとし、反証不可能な命題をもって、反証を封じることがどのような結果をもたらしたかと、戦前の日本の歴史学の状況を想起させつつ問い掛ける。

  実は、私が感じた違和感とは、まさにこの本書の結論というべき部分に代表されている。つまり、本書の作者にとって、「歴史」というのは、科学的な手法に則って証明された事実の集合体に過ぎないのでは、ということだ。私に言わせてもらえば、考古学的な遺物が示す考古学的な事実にせよ、複数文献間で証明された文献学的な事実にせよ、それを寄せ集めただけでは、まったくもって「歴史」と称するには、不足しているのである。それは恰も、いくら細胞の機能について分析し、事実を収集してもその集合である「人間」の全てが分かるようにならないのとまったく同じであり、私にとって個々の事実の寄せ集めには基本的にさほど大きな興味はないのである。

  過去存在について、確実に分かったものだけを事実と認め、その集積にしか歴史を認めない、というのは一見非常に慎重な態度であるのだが、逆から言えば、それはとるに足らないような退屈な事実、忘却の彼方に押しやられた事実までをも背景に持つ「歴史」という豊かすぎる内実を持つものを対象にするには、あまりに偏狭で、不自由な態度なのである。実際、我々の平々凡々で、何の記録にも残らないような日常が集積したものが歴史である。例えば、2年前の2016年四月某日の私、岡上佑の食べた朝食の内容、4年前の通勤において私が目にした雑誌の表題とそれが私のその年の投票行動に与えた影響、さらには、私が通った幼稚園の先生の口元にホクロがあったかどうか、こうしたものは歴史的事実いうにはあまりに些細で平凡すぎる内容であり、それ故に記録には残りにくいので、それを証明することは困難だろう。しかし、それらが現実問題として証明されないからといって、それらを「歴史」から排除してしまうべきではないのである。

 少し哲学的な言い方をすれば、基本的に我々が背負う過去とは、その証明可能性とは、無関係には存在しているのである。それが証明できないのは、ひとえに我々人間の無力さ、無能さの所以であって、我々の認識能力の低さから、ある歴史的な事象を証明できないからとって、それを存在しないものとして、学問の場から排除してしまうことは、大きな間違いなのである。卑近な例えをすると、犯人の似顔絵を想像するのが良いだろう。確かに事実として確実に分かったものだけを書こうとするのは、非常に堅実な方法だと言えるが、人の記憶など、そもそも曖昧なところがあり、不可避的にその本質としてそれが存在しているである。わからないから書かない、書けないという態度で「のっぺらぼう」のまま放置するなど、そもそもが「(不完全な認識しか持たない)人間が似顔絵を書く」という行為そのものと矛盾している。少なくともそんなものは、犯人探しには、まったく役にたたない。我々が知りたいは、犯人の表情であったり、印象であったりで、そんな不確実な情報、知識でも、それが存外、犯人特定の役には立ったりするのである。勿論、誤認逮捕は避けないといけないが、ここで言いたいいのは、いかに確実といっても、白紙の似顔絵ほど、ナンセンスなものはないのである。

 少し話が過ぎたが、例の引用文に戻るならこうである。ここでは、「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という比較的穏当な命題について、「文献批判、史料批判を封じる役割を担い、戦前の歴史学を想起される」と問題提起されている。これは、率直に言って、全くもってとんでもない論理である。「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」という命題が偽であるという主張は、「伝世文献の内容は必ず偽である(または真である)」ということと等価である。伝世文献を慎重に取り扱うべき、という主旨は100%同意であるが、間違った推論に基づいた考古資料のみが歴史であるというような態度からくる、干からびてパサパサの歴史など、まったくの願い下げである。先に挙げた「李斯と趙高の密談」を挙げるなら、事実の集合体としての歴史にはこうした物語じみたエピソードは残らないであろう。しかし、我々が手にしてきた「歴史」には、たしかにこのエピソードは存在するし、可能性としての内包の一つとして、このエピソードを歴史の内に留める勇気が必要なのではないか。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史などを例に出すまでもなく、歴史は物語性は切っても切り離せないものとして、古来から存在してきた。History のスペルの中には、Storyが隠れている。歴史から物語性を排除するなど、香ばしいカフェラテから、コーヒー成分を抜くような愚行であって、それでは残るのは水で薄めた牛乳が関の山なのである。私はこう言いたい。歴史にとって物語性とは、カフェラテのなかのコーヒー成分であって、その点こそ、大人の嗜好に相応わしい点なのである。

  先に挙げた引用文には、「関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えず真実として扱わなければならない」とあり、その後の文でこの考え方に批判を加えているが、この命題を批判したいなら非常に簡単であり、これはこの命題の根底にある「文献的事実は『真』か『偽』が何れかである」という態度がおかしいのであって、先に挙げた通り、証拠によって証明されていない事実とは、単に現時点の人間の有限の認識能力では、単なる真偽不明の命題というだけであり、決して否定的な証拠が出ていないからといって排中律を持って自動的にそれが『真』であるとは論理的には言えないのである。

ーーーーーーー

以上、ちょっと硬くなりすぎましたし、こうした批判はちょっと本書に対しては的外れとも思えますが、実はこれ、たぶんお気づきと思いますが、私の日本古代史に関する考えをこの場を借りて表明させて頂いたということです。司馬遷の史記、ヘロドトスの歴史に見る歴史を日本の記紀にも堂々と見ていいという私の主張でした。

という訳で誰も見てないブログですが、長文失礼しました



0 件のコメント:

コメントを投稿